メイン » » » ヴィクトル・スタルヒン
Victor Starffin

ヴィクトル・スタルヒン

Victor Starffin

1916.5.1(大正5)〜 1957.1.12(昭和32)

昭和期のプロ野球選手(投手)

埋葬場所: 外人墓地区 1種 2側

 ロシア帝国・ペルミ県ニジニタギル出身。父コンスタンチンと母エウドキア(共に同墓)の一人息子として誕生。父はロシア帝国軍将校であったが、1917(T6)ロシア革命勃発により軍職を失い、革命政府(共産主義政府)からの迫害を逃れるため、ウラル山脈から広大なシベリアを横断し、一家は国境を越えて日本の支配下にあった満州のハルビンまで逃げ延びた。'25 日本に亡命するため、入国に必要な大金を妻が隠し持っていた宝石でなんとか支払い、北海道の旭川市へ入った。日本では無国籍の「白系ロシア人」。
 日本に亡命した時、スタルヒンは9歳であり、旭川市立日章小学校へ入学。父は毛織物の行商とミルクホールを営み、母はパン焼きで家計を助けた。小学校5年生の時に既に身長が180センチを超えており、成績優秀でかつ運動神経抜群だった。少年野球に入るも、体が大きすぎるという理由で同学年のチームに入れてもらえず、上級生のチームに入れられた。'32 神戸の甲陽学院野球部にスカウトされ、学院側の援助で一家は神戸に転居。しかし、スタルヒンが投手として凄すぎるため他校から抗議が入り、移籍そのものが流れることになり一家は旭川に戻ることになり、旧制旭川中学校に入学。豪速球投手として注目されるも、北海道大会の決勝で二年連続味方のエラーで敗れ、甲子園に行けず。
 '34 甲子園を目指していた3年生の時に、読売新聞社が日米野球を企画主催し全日本チームを組織した際、スタルヒンの才能に目を付け読売は学校側の了解もなく勝手にチームの名簿に名前を加え、スタルヒンは学校を中退し全日本入りした。地元の英雄で甲子園を目指していたスタルヒンが仲間を捨ててプロ入りした苦渋の決断の背景には脅迫まがいな強引なスカウトがあったとされる。
 父のコンスタンチンは神戸で知り合った同じ亡命ロシア人のマリアを、旭川に連れて帰り、喫茶店を開いた。ところがマリアが心変わりをして離れようとしたため、'33 コンスタンチンはマリアの自宅に押し入り刺し殺した事件が起きた。父はすぐに殺人犯として逮捕。動機は嫉妬からの殺害と供述し懲役八年の刑で服役。このような背景がある中で、読売新聞のオーナーで巨人軍創設者の正力松太郎からの熱烈なオファーであった。父の逮捕で金銭苦であったことや無国籍の亡命者であったため、お金と身柄の保障をたてに半ば脅迫に近い形でプロ入りさせたというのが事実に近い話である。なお、殺人を犯した父のコンスタンチンは、殺したマリアが実はロシアのスパイであることが判明したため、'38 五年の服役で釈放されている。
 '34.11.26(S9) 大リーグ選抜軍を相手にするために編成された全日本軍に入る。同.11.29 大宮球場で行われた日米野球の8回に登板、三者凡退にきってとって順調にデビュー戦を飾った。チームは23対5で大敗。
 '36巨人軍に入団し背番号17。入団1年目は沢村栄治の陰に隠れて1勝しか揚げれなかったが、入団2年目は春期13勝4敗、秋期には15勝7敗、防御率1.85の成績を残し、最多勝のタイトルを獲得。春秋期合わせて28勝を挙げた。この年の7月3日にはイーグルス戦でノーヒットノーラン(4-0)を達成。 '38春期14勝3敗、秋期19勝2敗の成績を残して春期の最多勝、秋期の最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲り、シーズンMVPに輝いている。'39に42勝15敗、38完投という不滅の大記録を残し、最多勝と奪三振王となって、2年連続MVPに選出された。'40も38勝で最多勝、16完封と大活躍。巨人には戦争悪化で一時中断するまでの'44まで在籍し、311登板199勝61敗192完投62完封という大活躍をした。
 日本選手が兵隊に次々と取られていく中、無国籍であったスタルヒンは巨人エースとして投げ続けていた。名前も「須田博」に改名。肋膜炎で倒れ医者から野球生活を断念することを宣告される。失意の中、巨人軍からも追放された。更に敵性外人として軽井沢に抑留され、終戦によって解放。東京に出て偶然進駐軍の通訳兼案内として採用された。戦後すぐプロ野球復活の動きが進んでおり、病を克服していたスタルヒンは巨人時代の監督であり恩師の藤本定義の誘いでパシフィック太平でプロとして復帰。その後、藤本が監督として指揮する太陽ロビンス、金星スターズ、大映スターズと共についていった。その後も高橋ユニオンズ、トンボユニオンズと球団を転々とする。大映で27勝17敗の成績を残して最多勝を獲得。'55の9月にトンボで日本プロ野球史上初の300勝を達成し、その年7勝21敗の成績で現役引退。二年後の'57の1月12日、車の運転中に停車中の電車に激突し、40歳の若さで不慮の死を遂げた。191センチという長身から投げ下ろすストレートは、全盛期は160キロほど出ていたと言われ、低めのコントロールが非常に優れていた。

通算成績:実働19年、303勝(歴代6位)176敗、防御率2.09(歴代5位)、1960奪三振。83完封(歴代1位)最多勝6回(1937春〜1940・1949)最優秀防御率1回(1938)最優秀勝率2回(1938秋・1940)最多奪三振2回(1938・1939)165試合目での100勝はいまだ破られていない伝説。右投右打。

<The Baseball Hall of Fame & Museum 2001(ベースボール・マガジン社)>


*私生活では、'38ニコライ堂で知り合ったレーナと結婚するが、更に敵性外人として軽井沢に抑留され外国人奴隷のように扱われていた惨めな生活に妻レーナは耐えられず、これが原因で不仲となり戦後離婚した。 '50高橋久仁恵(日露ハーフのターニャ)と再婚し、翌年長女ナターシャが誕生した。ナターシャ・スタルヒンはスチュワーデス、外資系企業の秘書などを経て、'79ビューティ&ダンディを設立し代表取締役。 ホリスティック栄養士として健康やダイエット本を数多く執筆されてる。また亡き父を綴った本も出版している。

*墓石には「Констднтин Федотович Старухин」のみ刻み、それ以外の刻みはなく墓誌もない。これは父の「コンスタンチン・ペドロビッチ・スタルヒン 1888.3.22-1948.4.7」である。1948 父が亡くなり、多磨霊園にスタルヒンが墓石を建立し、1955 母のエウドキア(Евдокия)が亡くなりここに埋葬。そして二年後、ヴィクトル・スタルヒン(Виктор Константинович Старухин)が事故死し多磨霊園に埋葬された。1989(H1)スタルヒン33回忌の命日に合わせ娘のナターシャが秋田県雄物川町の崇念寺にヴィクトル・スタルヒンのお墓を建立し分骨。そちらが正墓所になる。崇念寺(そうねんじ)はスタルヒンと再婚した高橋久仁恵の弟の高橋大我が住職を務めるお寺である。

*1960 プロ野球初の300勝投手の功績により野球殿堂入り。多磨霊園に眠る野球殿堂入りをしている人物は、押川清(17-1-45)、小泉信三(3-1-17-3)、内村祐之(8-1-16-29)がいる。また'84 改修工事で完成した旭川市営球場は愛称「スタルヒン球場」と命名され、球場正面にはスタルヒンの銅像が建立された。



第85回 プロ野球大投手 ヴィクトル・スタルヒン お墓ツアー
亡命そして父は殺人犯


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・は行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。