東京市本所区(東京都墨田区)出身。高村国策、はな(共に同墓)の長男として生まれる。
旧制開成中学校を卒業し、国立の第二高等学校もしくは秋田鉱専を目指したが受験に失敗。1923(T12)滑り止めの慶應義塾大学経済学部予科に入学し演劇に没頭。本科に進んでからは、野村兼太郎を師事し経済史を専攻して、卒業論文「クライミング・ボーイの研究」を行った。'29(S4)慶應義塾大学経済学部卒業。同大学に残り、師の野村の助手として原史科に基づく研究を行い、慶應義塾大学を経済史研究の一大拠点に育て上げることになる。イギリス児童労働史や歴史哲学を研究。'32ドイツ・ハンザの研究に移る。その後、3年間は同大学経済学部予科講師として経済原論を担当した。
'35.4 ドイツに渡りベルリン大学に留学。フリッツ・レーリヒに師事。'36.4 ミュンヘン大学のヤーコブ・シュトリーダーに就き、同.11 ベルリン大学に戻りレーリヒの薫陶を受く。東洋人で初めての「ハンザ史学会」会員となった。またこの時期はベルリンオリンピックが開催された。アメリカを経由して帰国。帰国後は慶應義塾大学に戻り助教授、'39教授になる。
一般経済史、古代中世経済史、英語及ドイツ語経済学講話読、研究会を担当した。ドイツ留学により日本の歴史学界では未開拓の北ドイツ中世都市の商人団体ハンザの研究を深め、「ドイツ・ハンザの研究」をまとめる。'53この研究により慶應義塾賞を受け、'60経済学博士の学位も受けた。
'55経済学部長、大学院経済学研究科委員長、慶應義塾経済学会会長を兼任。'58慶應義塾図書館長、農林省林業試験場研究顧問、'59文部省学術奨励審議会委員、外務省公務員採用上級試験委員などを歴任した。'60.6 慶応義塾長(学校法人慶應義塾理事長)兼 慶応義塾大学長(〜'65.4)に就任。大学の育林活動などを積極的に行った。
その他に、財団法人日本科学技術振興財団理事('60.7-'65.6)、日本育英評議員('60.11-'68.11)、社団法人日本私立大学連盟会長('61.2-'65.5)、文部省私立大学審議会長('64.11-'66.11)、全国大学教授連同会長(64.12-'70.6)などを務めた。他に数多くの理事や評議員などをつとめる。'63.9 第二回日米文化教育合同会議に日本代表の一員として渡米。'69.9 開成学園理事、'70 文部省教育課程審議会会長、大阪学院大学大学院商学研究科客員教授、北里学園理事、神奈川県美術奨学会理事などにも就任した。'71 慶応義塾大学名誉教授。'77 中央教育審議会会長を6年間務め、我が国の教育制度を構築した。同.4.29 勲1等瑞宝章、日本学士院会員。'82交詢社理事長。
著書に『西洋経済学史』(1938)、『近代技術史』(1940)、『日葡交通史』(1942)、『一般経済史』(1944)、『一般経済史 古代・中世』(1948)、『資本主義の歴史的問題』(1948)、『アメリカ資本主義発達史』(1952)、『西洋経済史』(1971)、『ドイツ中世都市』(1959)、『五年のあしあと』(1965)、『教育への提言』(1981)がある。その他、『日本塩業史』(1958)や『日本林業発達史』(1960)の編纂や、翻訳、共著もある。従3位。享年83歳。
*墓石は和型「髙村家之墓」。右側に墓誌が二つある。入口に近い古い墓誌は長野県出身の父の高村国策の両親らと国策夫妻までが刻む。新しい墓誌は父の高村国策以降が刻む。象平の戒名は旺興院覺道經傳禅居士。妻は薫(H18.7.15歿・97才)。象平の長男は高村誠一(R2.5.29歿・82才)、誠一の妻は光佐子(R2.1.31歿・82才)。
*高村国策(1945.2.18歿・78才)は長野県更埴市稲荷山町出身。『酒類改良之主意』(1892)の著書を刊行している。地主であり、1945.7.27戦時中に慶応大学の図書館蔵書が高村国策別邸(長野県千曲市稲荷山:指定文化財)に疎開している。
*高村国策の前妻は はな(旧姓は久保。実家は東京本郷:1926.9.29歿・50才)。象平は はな との子。はな没後、国策は後妻の公子(H17.11.18歿・105才)と結婚している。古い墓誌には公子と刻み、新しい墓誌には「グレース髙村阿久利」と刻む。
*高村象平の妻の薫の旧姓は浅田。1男1女を儲ける。長男の誠一は、'61岐阜大学農学部林学科卒業し、東海パルプに就職。'68.5 多根光佐子(島根県の多根一義の次女)と結婚。長女の信子は伊藤直明(東京都立大学工学部建築学科助教授)に嫁ぐ(1969)。
※「高村」の正式漢字は「髙村」であり、墓石や墓誌は「髙村」と刻む。