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やまもと いそろく

山本五十六

やまもと いそろく

1884.4.4(明治17)〜 1943.4.18(昭和18)

大正・昭和期の海軍軍人(元帥)

埋葬場所: 7区 特種 1側 2番

 新潟県古志郡長岡本町(長岡市)出身。長岡藩士の高野貞吉の6男。貞吉が56歳の子であったため「五十六」と名付けられた。旧姓は高野。号は「兜城」(長岡城の別名)、のちに「長稜」(長岡の雅名)。甥に陸軍軍医大佐の高野五郎がいる。
 「武士の家の子は武士になる」と軍人を志し、1901.12(M34) 海軍兵学校(32期)に200名中2番の成績で入校。同期に終生の仲となる堀悌吉(後に中将)、吉田善吾(後に大将:16-1-5)、塩沢幸一(後に大将)、嶋田繁太郎(後に大将)、水城圭次(後に大佐:美保ガ関事件:6-1-1-13)、井上繁則(後の大佐:13-1-27)らがいた。'04.11.14 繰り上げ卒業(192名中11番)して少尉候補生として日露戦争に従軍。練習艦「韓崎丸」に乗船後、'05.1より装甲巡洋艦「日進」配属となって、同.5.27 日露戦争の日本海海戦に参加。海戦時に左手人差し指と中指の欠損、左大腿部に重傷を負う。入院中に少尉に任官。
 '06.2 防護巡洋艦「須磨」乗組、その後、戦艦「鹿島」、海防艦「見島」、駆逐艦「陽炎」乗組を経て、'07.8 海軍砲術学校普通科となり、同.9 中尉に進級し、同.12 海軍水雷学校普通科で学ぶ。'08.4 駆逐艦「春雨」、装甲巡洋艦「阿蘇」を経て、'09大尉となり三等巡洋艦「宗谷」分隊長に配属され、海兵37期の少尉候補生であった井上成美(後の大将:21-1-3-18)、小沢治三郎(後の中将)、草鹿任一(後の中将)、鮫島具重(後の中将)、國生行孝(後の大佐:8-2-30)らを指導した。
 '10.12 海軍大学校乙種学生、'12.5 砲術学校高等科学生となり、卒業後、同.12(T1)から海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と親交が厚くなる。'13.12「新高」砲術長、'14.5 横須賀鎮守府副官兼参謀、同.12海軍甲種学生となった。'15.12 少佐に進級。
 32歳になった五十六の将来を見込んで、子爵の牧野忠篤が旧長岡藩家老の山本義路(山本帯刀)で断絶していた山本家を相続する形(佐藤庄之助の妻の山本タマシの養子となる・お墓以外金銭等の相続はない)で家名を再興する話をいただき受諾。'16.9.20付で高野五十六から「山本五十六」へ改姓届出した。同.11.28(T5)海軍大学校(14期)卒業。同期に市来崎慶一(後の少将:24-1-31:戦後『噫山本元帥』刊行)らがいる。卒業後は第二艦隊参謀となった。しかし、'17年明けより腸チフスにかかり療養していたが虫垂炎も患い郷里で休養。同.7 海軍省軍務局第二課で復帰し、海軍教育本部第一勤務の頃に、お見合いをした三橋禮子(同墓)と結婚('17.8.31)した。
 '19.4.5 アメリカ駐在を受命し、ハーバード大学に留学しながらアメリカ国内を視察。油田や自動車産業、特に飛行機産業に強く印象を残し、舟から飛行機の時代が到来することを感じる。同.12 中佐に進級。'21.7.19 帰国後、軽巡洋艦「北上」副長を経て、同.12 海軍大学校教官となり、軍政学担当として航空機観を講義して影響を与える。
 '23.6.20 欧州・欧米視察をし、ロンドン滞在中に関東大震災の報を受ける。同.12.1 大佐に昇進、'24.3 帰朝。この頃、砲術から航空へ転科し、同.9 霞ヶ浦航空隊付、同.12 霞ヶ浦海軍航空隊教頭兼副長に着任。軍記風紀を刷新し、短髪を推奨、五十六自身も三和義勇を副長官付に任命し航空機の操縦を習い鼓舞した。また航空隊には「KG」という内輪の暗号があった土浦の「割烹 霞月楼」の二代目の堀越正雄と女将の満寿子夫妻に親代わりのように支えられるようになる。
 '25.12 駐米大使館付武官となり二度目のアメリカ滞在。アメリカの石油、自動車、航空機、船舶などの生産・流通体制を視察、研究。後の対米戦の戦略立案に大きな影響を与えることになる。'27.11.15(S2)帰朝命令が出て、'28.3.15帰国後は出仕、同.8.20 軽巡洋艦「五十鈴」艦長、同.12.10 多段式空母「赤城」艦長に就任。
 '29.10.8 出仕、同.11.8 ロンドン軍縮会議に次席随員として参加。山口多聞と共に軍縮案に強硬に反対し、対米7割を主張。首席全権の若槻禮次郎や大蔵省派遣の賀屋興宣(9-1-1-8)と相違が起き混乱した。これをきっかけとして、軍縮条約を巡って海軍内に艦隊派と条約派という派閥争いが生じ、海軍の人事に大きな影響を与えることになる。結果的に、外交団代表は五十六の意に反して軍縮条約に調印。海軍内では五十六への批判も出た。この間、同.11.30 少将に進級。
 '30.9.1 海軍航空本部出仕となり、同.12.1 海軍航空本部技術部長に就く。航空主兵を強力に推し進め、国産機製造を推奨、日本海軍航空機の発展に尽力。海軍航空機の条件として、国産・全金属・単葉機を掲げ、母艦発着甲板を長くすることを指導。'33.10.3 第一航空戦隊司令官となり、空母「赤城」に座乗。
 '34.6.1 出仕となり、同.9.7 ロンドン会議予備交渉代表に選出されるが、この時期はワシントン海軍軍縮条約の破棄、同期で親友の堀悌吉が予備役に編入される大角人事があり気力を失う。同.9.20 第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表として、政府の意を受けて「戦艦・空母の全廃、兵力量の各国共通制限設定」を主張し列強交渉団と互角に渡り合うも、アメリカの冷淡な姿勢により予備交渉は中断。同.11.15中将に累進。日本の対外強硬論への不満と、日米開戦を予期し、予備交渉は上手くいかずに、'35.2 シベリア経由で帰国。海軍を辞める意思を持ったが、堀に慰留され、故郷の長岡でしばし休養した。第二次ロンドン海軍軍縮会議の随行を要請されたが予備交渉で懲りていたため固辞した。


海軍航空本部長時代:航空主兵論を主張】
 '35.12.2 海軍航空本部長に任命される。駐米経験や軍縮会議でアメリカの物量と力を感じ、またこれからの時代は航空戦であると肌で実感していた五十六は、日本の航空力強化に乗り出す。一方で、空軍独立論に対して主導権を陸軍が握ることを懸念し断固反対の姿勢をとり、後に陸海軍航空隊の指揮権統一の提案も一貫して反対を貫いた。
 航空搭乗員の資質は入隊後半年以上の訓練を経なければわからず、人材登用に苦慮していたところ、手相・骨相を鑑定するだけで、80%以上の確率で適任者を見抜くことが出来る手相骨相鑑定家の水野義人を知り、海軍航空本部嘱託に採用した。以降、航空搭乗員採用試験の際に鑑定させ、採用・不採用の参考としている。
 大和型戦艦建造計画を推し進める大艦巨砲主義の艦政本部に反対論を唱え対立。五十六は今後の戦闘には戦艦は無用の長物と反対し航空主兵論を主張し続けるも、軍令部総長の伏見宮博恭王の仲裁、高等技術会議で大和型2隻の建造が決まり、マル3計画における3万トン級正規空母(翔鶴型航空母艦)2隻の建造も決まる。日本海海戦の勝利が薄れない旧態依然とした幹部たちから煙たがれる。
 '36.2.2 ニ・二六事件では反乱に賛同する海軍青年士官を一喝して追い返し、岡田啓介(9-1-9-3)首相救出に米内光政と関わった。同.11.25 日独防共協定が締結され、同.12.1 海軍次官に就任。'38.4.25 航空本部長を兼務、'38.11.15免兼。


【海軍次官時代:三国同盟に反対】
 '36.12.1 永野修身海軍大臣の下で海軍次官となる。米内光政海軍大臣の際も留任した。'37.7.7 盧溝橋事件から日中戦争(支那事変)に拡大し、同.8.13 第二次上海事変が起きると海軍航空隊も本格的に投入された。これに伴い、同.8 駐華英国大使ヒューゲッセンが日本軍機の誤爆で負傷した事件や、同.12 海軍航空隊が米砲艦を誤爆したパナイ号事件の外交問題の処理に奔走。
 '38.11.25 南シナ海の海南島を占領する計画を米内光政が五相会議で提案し閣議了承されたが、五十六は英米の反発を招くと反対。しかし、'39.2 日本軍は実行し海南島を軍事占領した。日本にとっては南方進出を見込んだ布石であったが、東南アジアに多数の植民地を持つ欧米列強との関係は一挙に悪化することになった。
 この間、第一次日独伊同盟交渉が、'38.7〜'39.8まで行われる。この日独伊三国同盟の締結に対して、海軍大臣の米内光政、海軍省軍務局長の井上成美らと共に最後まで反対。日本がドイツと同盟関係に入れば、ヒトラーのドイツと犬猿の仲にあるアメリカとの仲が、いちじるしく悪化すると判断していた。ドイツ側は、日独伊同盟によってアメリカの態度をおとなしくさせることができると主張。日本の同盟賛成派はこれを信じた。
 五十六は海軍左派とみられ、三国同盟賛成派はイメージを悪化させるプロパガンダを展開し暗殺の風評も出た。五十六は遺書も書き、孤立しても主張を曲げずにいたところ、'39.8.23 ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を締結し、日独伊三国同盟の交渉はとん挫した。


【連合艦隊司令長官時代:開戦反対・海軍大臣流産】
 '39.8.30 第26代連合艦隊司令長官に就任。吉田善吾が海軍大臣に内定した際、次官として留まり、日米開戦回避の補佐を要望したが、三国同盟に強硬に反対し右翼勢力の暗殺計画もあったため、米内光政が海軍中央から遠ざける人事を行い、連合艦隊司令長官に任官させられた。この人事に対して五十六は当初は拒んだが、腹を決め、アメリカとの無謀な戦争に対しての戦略を練り、連合艦隊参謀長の福留繁(6-1-6)にハワイ奇襲作戦構想などを語ったとされる。また航空機増産の主張や、水平爆撃廃止論の一蹴など持論を押し通した。
 '40 ヨーロッパで大戦(第二次世界大戦)が勃発し、ドイツが西方攻勢に成功してフランスが降伏すると、日本では「バスに乗り遅れるな」との合言葉で、ドイツとの同盟熱が高まった。日本の反応を知ったヒトラーは特使スターマーを日本に派遣し、'40.9.7 東京に到着して、第二次日独伊同盟交渉が開始した。
 日独伊同盟を議題とする海軍首脳者会議への参加を指示され上京。五十六はそこで日独伊同盟を不可とする理由の資料を準備した。日米両国の戦略物資の比較表、輸入石油70%以上をアメリカに依存している現況の資料。他にも船舶、戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、航空機の日米戦力比較表も作成した。日米関係が悪化して戦争ともなれば、日本に勝算がないことを示す資料を持参し上京し、会議に出席。しかし、既に首脳部は同盟に賛成との態度を決定していた。この会議は日独伊同盟締結の可否を論ずる場ではなく、海軍中央部の決定を列席者に説明する場であり、そのように仕組まれた会議であった。そのため、及川古志郎海軍大臣から機先を制され賛成するように説得され、同.9.15 海軍首脳会議で三国同盟締結に向けての調印に賛成の方針が決まった。五十六はこの条約でアメリカとの衝突に繋がりかねないという持論を発するも、条約締結によりアメリカを抑止できるというドイツ側の説明を受け入れている海軍中央部の首脳にとっては、五十六の発言は異端と見られた。同.9.27 日独伊三国同盟が締結。
 '40.11.15 大将に昇進した。'41.7.30 永野修身が昭和天皇に拝謁し、南部仏印進駐について上奏した際、昭和天皇は将来を不安に思われた。同時に日本軍の進駐を知ったアメリカ政府は日本の在米資産凍結を発表。これにより天皇は永野に対する信任を失い、この情報は近衛文麿首相や海軍長老の耳に入る。水面下で米内光政が五十六を海軍大臣に据える人事案を考えたが、現役の海軍首脳部には通じず流産。東條内閣が成立するときには、非戦主義の豊田副武は東條に忌避され実現せず、無色の嶋田繁太郎が海相に就任し太平洋戦争に突入することになる。もし山本が海相に就任していれば、開戦に賛成することはありえず、歴史がかなりの程度で変わったはずだと言われている。
 '41.9.12 近衛文麿首相のたっての要望により海相の許可を得て萩外荘で面会し、日米戦の見通しに関して質問されると、「それは是非やれと云われれば初め半年や一年はずいぶん暴れて御覧に入れる。しかしながら二年三年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりましては日米戦争を回避するよう極力努力願いたい」と答えた。後にこの時、アメリカには勝てないと全力で反対すべきだった。1年間はできると言ってしまったことで期待させてしまったと、井上成美は回想している。


【太平洋戦争勃発:真珠湾攻撃の成功とミッドウェー島攻略作戦の大敗】
 '41.8.11 連合艦隊司令長官の任期は2年と暗黙で決まっているところ再任が決定。五十六の案である真珠湾攻撃に向けて演習が行われ準備を整える。真珠湾攻撃案を発案した五十六の考えに、第11航空艦隊参謀長の大西瀧次郎少将、加賀参謀の源田實中佐が案をつくり、軍令部第一部長の福留繁少将の手を経て、第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介少将が詰め、連合艦隊参謀の黒島亀人大佐が五十六の意を受けて軍令部に実行を迫った。同.12.2 軍令部に事前の宣戦布告を確認し、翌日、昭和天皇に拝謁して勅語を賜る。
 同.12.8 コタバル上陸・真珠湾攻撃が実施され、大東亜戦争が勃発。連合艦隊旗艦戦艦「長門」で指揮し、真珠湾攻撃を連合艦隊の実行部隊である南雲艦隊により実行され、ハワイのアメリカ海軍の太平洋艦隊を行動不能にする大戦果をあげた。同日、陸軍はマレー半島のイギリス軍に攻撃し開戦。同.12.10 マレー沖海戦もイギリス新型戦艦を撃沈し成功。同日夜、昭和天皇からマレー沖海戦の勝利を褒賞する感状が届いた。しかし、真珠湾攻撃前に対米最後通告が遅れないようにと中央に確認したにも関わらず、駐米大使館の失態で通告が遅れ、結果的に騙し討ちであったことを知り心を痛める。
 '42.1.18 旗艦を戦艦「大和」に移し、同.2.12 正式に変更。一連の南方作成(第一段作戦)で大本営の要望通りの戦果を収め、第二段作戦に取り掛かる。同.4.4 誕生日に勲1等功2級が贈られた。早期終結を目指し、ミッドウェー島攻略作戦を独自に作成し、軍令部作戦課の反対もあったが押し切る。
 同.6.5 ミッドウェー島攻略とアメリカ機動部隊殲滅を目的とするミッドウェー作戦を実行。先発の第一航空艦隊(南雲艦隊)が敵機動部隊から攻撃を受け、主力空母4隻他を喪失する大敗退を喫する。後方を航海していた戦艦大和に座乗していた五十六は「敗因責任は私にある」と反転し帰還。しかし、この敗退は国民には知らされず、むしろ戦果報告をし、海軍の作戦研究会でも敗因研究は行われず、敗北の責任の追及もされずに封印された。なお、ミッドウェー作戦の日本の行動はアメリカ軍に傍受解読されていた。
 同.8.17 ガダルカナル島を占領された日本軍の作戦立案と指導を行うために出撃し、同.8.28 前線拠点トラック島に進出。厳しい戦いでトラック泊地から動けず、様々な作戦もとん挫。同.11中旬の第三次ソロモン海戦で連合艦隊は戦艦「比叡」「霧島」を失い精神的に追いつめられる。'43.1 大本営はガダルカナル島から撤退方針を決定。五十六はガダルカナル撤退作戦(ケ号作戦)に臨み、最小限の損傷にて兵士1万600名余の撤退に成功した。


【い号作戦・海軍甲事件、戦死】
 '43.2.12 連合艦隊旗艦を「武蔵」に変更。同.4.7 ソロモンおよび東部ニューギニアの敵船団、航空兵力を撃破しその反攻企図を妨げること、同地域の急迫する補給輸送を促進し、戦力の充実を図り部隊の強化を実現することを目的として、連合艦隊が独自に立案した「い号作戦」を開始。航空機の損失はあったが、アメリカ海軍の一方的な大敗となり成功し、同,4.16 終了。五十六はい号作戦の間、トラック島の「武蔵」を離れ、直接指揮をするためにラバウル基地に着任。
 い号作戦終了後、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てた。その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された。同.4.17 この打電はアメリカ海軍情報局にキャッチされ暗号電文を解読された。アメリカ太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツは待ち伏せして五十六を暗殺することに対してフェアではないと思ったが、太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンから五十六は日本で最優秀の司令官であり、どの海軍提督よりも頭一つ出ているため、後継者に更に優れた司令官が着任することはないと報告。これにより、五十六が戦死をすれば日本の士気が大きく低下することを狙い、暗殺することを南太平洋方面軍司令官ウィリアム・ハルゼーに命令書を出した。
 同.4.18午前6時、五十六を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進。五十六は1号機、宇垣纏(20-1-8-18) 参謀長は2号機に搭乗。零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され戦死した(海軍甲事件)。享年59歳。
 なお、1号機と2号機ともに撃墜され墜落したが、2号機は海面に墜落したため、宇垣らの命は助かった。1号機に五十六らと一緒に搭乗した樋端久利雄(12-1-33:海軍大佐)ら全員殉じた。五十六が搭乗した1号機は撃墜された翌日発見。五十六の遺体は機体の傍らに放り出されていた座席に着座し、右手に軍刀を握ったまま泰然としていた。遺体検死記録によると「死因は戦闘機機銃弾がこめかみから下アゴを貫通した事、背中を貫通した事」という結論が出され、墜落時の死亡ではなく、被弾の即死と結論づけ、公式では機上での即死と記録されているが異論もある。遺体はラバウルで火葬され、木箱の底にパパイヤの葉を敷いた骨箱におさめられた。火葬した際の灰はブイン基地の滑走路隅に埋められパパイヤの木が植えられた。
 五十六の連合艦隊司令長官の在任期間は3年8カ月で歴代長官で最長。同時に長官として唯一の戦死者(後任の古賀は殉職のため)となる。戦死を受け、同.4.21 極秘裏に後任の連合艦隊司令長官に古賀峯一(7-特-1-3)が着任。参謀長の宇垣纏も負傷中であったため、福留繁と交代し、五十六らの遺骨は宇垣の手によって内地に帰還する「武蔵」により日本に運ばれた。「武蔵」の長官室の机には封筒に入れた封印無しの遺書(永野修身、嶋田繁太郎、堀悌吉、妻・禮子、反町栄一 宛)、さらに遺髪が一人分ずつ紙に包まれていた。
 五十六の死は約1カ月秘匿とされた。同.4.20 海軍大臣の嶋田繁太郎と秘書官の麻生孝雄が遺族に戦死を伝える。五十六の軍刀は宇垣纏が譲り受ける。五十六の死が公になったのは、遺骨が内地に帰還する前日、同.5.21 大本営発表並びに内閣告示第8号で、大勲位、功1級、正3位と元帥の称号が贈られ、国葬に付することが発表された。同.5.27 ドイツより剣付柏葉騎士鉄十字章を外国人として初めて授与される。
 没後、'56(S31)内田成志(3-2-40:海軍大佐)が、2月号「人物往来」所収の「海軍作戦計画の全貌」(新人物往来社 刊「日米開戦と山本五十六」)で、真珠湾作戦や山本五十六の人間的魅力など、軍令部参謀として関わった海軍機密室の全貌を公開した。


【山本五十六の国葬】
 '43.4.18 山本五十六戦死。翌日遺体が発見される。同.4.20 海軍首脳や遺族に戦死が伝えられる。同.5.21 国民に発表。同.5.22 戦艦「武蔵」に乗せられた遺骨が帰還。同.5.23 遺骨が東京駅に到着。
 6月1日、自宅でお通夜。喪主は長男の山本義正。
 6月4日、悲涙(ひるい)の儀、御所で祓除(ふつじょ)の儀、霊代(れいだい)安置の儀。
 6月5日、葬儀委員長を米内光政が務め「国葬」が行われた(東郷平八郎の国葬も6月5日であった)。皇族・華族ではない平民が戦前に国葬された初の事例となる。国葬の様子はラジオで実況中継された。
 国葬 7時30分、東京・芝の水交社で柩前祭が行われ、8時30分、霊柩は黒の砲車に移され、8時50分より1キロを全員徒歩でで移動。10時より国葬を日比谷公園葬場で挙行。12時30から一般市民の拝礼が始まり、14時には約1万人が拝礼し打ち切られる。14時30より日比谷公園から溜池、赤坂見附、紀伊国坂、四谷見附を通過し、新宿から甲州街道に向かい多磨霊園まで運ばれ、その沿道は途切れることなく市民が参列した。6月18日、分骨の遺骨は郷里の長岡へ出発した。


【山本五十六の妻・禮子(礼子・レイ)と家族】
 '13(T2)五十六は夏季休暇で母を看病をしに帰郷。それまで給料の半分を実家に送っていたが、そのことで婚期を逃していると心配されながら没す。'15山本家を相続。30歳を超えても結婚をせず、芸妓・小太郎との噂を良くないと思った仲間たちに心配される。'17.1腸チフスにかかり、療養中に虫垂炎にもなり生命の危険に陥るも、大手術で回復し、郷里で6月まで休養。7月に海軍省軍務局員と復帰し、海軍教育本部第一勤務となった。
 部下である齋藤正久(後の海軍大佐)から、自分の妻の十美の妹の禮子を五十六のお見合い相手として紹介される。一目惚れをして、同.8.31 東京・芝の水交社で結婚式を挙げた。この時、五十六は33歳、禮子は21歳であった。
 禮子は福島県会津若松出身で、旧会津藩士で判事の三橋康守の三女。当時は康守は判事を辞して牛乳業を営み、禮子は会津高等女学校を卒業し、牛の世話と家事手伝いをしていた。
 禮子の母の亀久は米沢藩士の娘であり、海軍大将で連合艦隊司令長官を務めた山下源太郎の養子の山下知彦の母と姉妹。山下源太郎の妻の徳子は政治家の宮島誠一郎の三女であり、長女は上泉徳弥(後に海軍中将)に、四女は山中柴吉(後に海軍中将)に、五女は四竈孝輔(後に海軍中将:21-1-22-10)にそれぞれ嫁ぎ、山下とは相婿の関係。この関係により、結婚式の仲人は四竈孝輔夫妻がつとめた。禮子の結婚により、少佐4年目の五十六は海軍内で親戚が増えることになり立身出世をすることとなっていく。
 山本禮子(1896-1965.5.5 70才歿:同墓)との間に2男2女を儲ける。長男は山本義正(1922-2014:同墓)、長女は澄子(1925生)、二女は正子(1929生)、次男は忠夫(1932-2004.2.24 71才歿:同墓)。
 五十六戦死後は、'44.2(S19)禮子は澄子、正子、忠夫とお手伝いの女中を連れて、和歌山県日高郡塩屋村(御坊市塩屋町)に疎開。新聞記者の平井忠夫宅に身を寄せてもらう。忠夫は単身赴任中。忠夫は塩屋国民学校、正子は日高高等女学校へ転入。同.11 正子は学徒動員で石川島航空製作所日高工場を経て、'45.3より横浜工場へ動員。動員免除が出た時には一家は帰郷していたため、塩屋に戻らず高女も卒業せずに帰郷している。山本義正は著述家、山本正夫は英語学者となった。


【山本五十六の女性関係と手紙】
 1日30通の郵便を出していた筆まめ。山本宛の手紙も多く艦内に届き、「連合艦隊司令長官様」は公文書として、「山本五十六様」は私信として、私信は自らが全て返信を書いたとされる。
 海軍兵学校時代は姪の高野京と頻繁に手紙のやり取りをしていた。他にも家族はもとより、親戚やその子ども、海軍仲間たちにも個人的な手紙を多数出している。同期で親交が厚く山本家や愛人宅にて五十六の情報を提供していた堀悌吉(海軍中将)や、五十六の最後の信書(絶筆とされる)を受け取った相手とされる城戸忠彦(19-1-8:海軍少将)ら多数いる。
 '18(T7)頃、少佐で軍務局員だった頃より愛人の佐世保の芸妓・小太郎(鶴島正子・鶴島ツル)と手紙が多くなる。小太郎との出会いは、その6年前('12頃)。佐世保の軍港に五十六の船が着いたとき、お座敷でお酌をする小太郎と知り合った。この時、小太郎はまだ12歳で、五十六とは16歳の年の差。年月を重ね意識し合う仲となり、「五十六の初恋の女性」として二人の関係は海軍の同期仲間に知られる存在となる。しかし将来を渇望されている下士官が芸妓と結婚することが許されず。結果、'17.8.31 五十六はお見合いで会津出身の三好禮子(同墓)と結婚。これにより、'18(T7)頃より、18歳になった小太郎と五十六の仲が急接近し愛人関係となった。後に関係が薄れても交流が途切れることはなく、五十六戦死をラジオで聞くまで手紙のやり取りは続いた。やり取りしていた手紙を大事に保管していたためその量はスーツケースが一杯になるほどだったという。なお、小太郎こと鶴島正子は、'68.11.11(S43)に亡くなるまで、生涯を独身で通した。
 '30(S5)頃より新橋の料亭に半玉として出ていた河合千代子は、何かの送別会で五十六と初対面した。威張っていてむっつりしていた五十六を誘惑しようとしたところ、何回か会ううちに自分が逆に参ってしまったと回想している。五十六からは援助は出来ないから妹として付き合いたいと言われ、「妹」「お兄さん」と言い合う仲となる。五十六との年の差は20歳差。会ってから10回目、河合千代子が26歳の時、五十六がロンドン軍縮会議出発直前に深い関係となり、子どもは諦めてくれと言われたが、以後五十六が戦死直前まで、13年間、愛人として多くの手紙をやり取りした。
 '41.12.4 五十六は真珠湾攻撃直前に、河合千代子にバラの花束を届け、翌日の手紙に「この花びらの散る頃を待つように」と伝えている。最後の別れは、'42.5.14 呉の軍港。ミッドウェー海戦直前の一時帰国している際に電話をしている。千代子は肋膜炎にかかり絶対安静を命ぜられていたが、その晩、医師を付き添え夜行列車で呉に会いに行っている。五十六没後に海軍省が千代子のもとを訪れ、「元帥にあなたのような女がいると恥辱だからすぐ自決してくれ」と迫られた。39歳の身ではとても死ねず拒絶すると、海軍省から手紙を全部提出せよ、命令に従わないなら家宅捜索して取り上げると通達がきた。5,6通を隠し、60通ほどの来信を提出し、更に五十六の形見である恩賜の銀時計も没収された。
 河合千代子(1904.8.30-1989.8.3)は名古屋出身。名古屋女子商業卒業。両親と上京するが、関東大震災で父の店が倒産、25歳の時に両親が相次いで病死。26歳で芸妓となる。3年後の29歳頃より新橋の「野島家」から「梅龍」と名乗る。五十六が戦死し、日本が敗戦した後は、'50静岡県沼津に移り、青木一男衆議院議員の援助で割烹「せせらぎ」の料亭を開店した。気前が良すぎで商売がうまくいかず、山本元帥の愛人が料亭を経営していると噂され被害もあった。'55ボイラー製造工場を経営者の後藤銀作と結婚。戸籍名は後藤ちよ。'89.8.3(H1)肺炎のため、千代子は85歳で逝去。墓は、東京・六本木の妙善寺。山本五十六の遺髪と共に葬られた。後藤ちよ としての位牌は静岡県清水町の普光寺に安置・分骨されている。なお、五十六の遺骨の一部が極秘裏に手渡され、国葬前後に内輪の告別式を行い、千代子の実家の東京・六本木の妙善寺に分骨されたという説もある。
 なお、『山本五十六の生涯』(著:工藤美代子)では、五十六の長男の義正が父親に妻以外の女性関係があったことを知っていたという記述がある。有名な二人の愛人だけでなく、五十六は苦労人が多い花柳界の女性たちを単なる遊び相手として見ず、あの時代には非常に珍しく対等な関係として話をしていたことから、女性たちは五十六の優しさに惹かれる芸妓が多く、加えて筆まめであったことから、多くの手紙が実家に届いていたとのこと。多くの芸妓は五十六戦死後も大切に心に秘めたままにしていたのだが、河合千代子は五十六の手紙を公開し、マスコミの取材にも応じたため彼女だけが有名になっていったそうだ。「はっきりいって、山本家としては、大変迷惑をしました」 と義正は静かだが毅然とした口調でいったとされる。
 余談だが、'15(T4) 五十六が31歳の時に、フランス人の女性との間に、ビリー・ヤマモトという隠し子がいたとされる陰謀論もある。実際、五十六の著作物はたくさん出ているが、この件を取り上げている本はほとんどないため真意は不明。


【山本五十六の格言】
「やってみせ 説いて聞かせて やらせてみて 讃(ほ)めてやらねば 人は動かぬ」が正しい。多くの著作には「やってみせ 言ってきかせて させてみせ ほめてやらねば 人は動かじ」とあるが・・・。  ちなみに、五十六のこの有名な名言には続きがある。「話し合い 耳を傾け 承認し 任せてやらねば 人は育たず」「やっている 姿を感謝で見守って 信頼せねば、人は実らず」  なお、この格言は、江戸時代屈指の名君として知られた出羽国米沢藩9代目藩主の上杉鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」から影響を受けているとされる。  その他、下記の言葉も有名。
「中才は肩書によって現れ、大才は肩書を邪魔にし、小才は肩書を汚す」
「苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である。」

<帝国海軍提督総覧>
<連合艦隊司令長官24人の全生涯>
<「山本五十六」阿川弘之>
<「人間 山本五十六」戸川幸夫>
<「人間山本五十六」反町栄一>
<「山本五十六の恋文」望月良夫>
<「山本五十六の生涯」工藤美代子>
<「父 山本五十六」山本義正 など多数>


墓所 墓石正面 山本家 碑

*正面「元帥海軍大将 正三位 大勲位 功一級 山本五十六 墓」。裏面「昭和十八年四月戦死」。墓石の字は米内光政が書した。墓所右側に「山本五十六 御誄碑」が建つ。戒名は大義院殿誠忠長陵大居士。五十六の墓石の左隣に洋型「山本家」、裏面は「昭和四十五年三月建之」と刻み、左手に墓誌が建つ。墓誌には、五十六の妻の山本禮子(S47.5.5歿 77才と刻む)を筆頭に、長男の山本義正(H26.6.4 91才)、義正の妻の正子(R2.6.3 94才)、次男の山本忠夫(H16.2.24 71才)、忠夫の妻の和子(S44.10.24 34才)が刻む。

*遺骨はこの多磨霊園の他に郷里・長岡市の長興寺にある山本家墓にも分骨されている。2004.10.23(H16) 中超地震で旧長岡藩家老の山本家及び五十六の墓石が被災に遭い、2007.4.18 墓碑の改修に五十六の長男の山本義正が父の五十六の戒名を加えて建之し直した。現在、長岡の長興寺にある山本家墓所には、前面に五十六の戒名「大義院殿誠忠長陵大居士」が刻む単独墓と墓所手前に「山本五十六の墓」プレートも立つ。

*生家は戦災で焼失したが、戦後同地に「山本元帥生誕の地」と復元し、一帯を山本記念公園(長岡市教育委員会管理)とした。'48 霞ヶ浦の湖底から引き揚げられた胸像をブロンズ像に鋳直し建造。公園のそばには山本五十六記念館がある。また地元では「越後長岡五十六まつり」が毎年5月中旬に大手商店街主催で行われている。また、'84.2 山本五十六の生誕百年を記念して、長岡から巡拝団が、終焉の地のブーゲンビル島に派遣され、大密林下で山本長官搭乗機を発見。「山本長官機里帰りプロジェクト」が行われ翼が還る。



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