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よしだ ぜんご

吉田善吾

よしだ ぜんご

1885.2.4(明治18)〜 1966.11.14(昭和41)

昭和期の海軍軍人(大将)、
連合艦隊司令長官、海軍大臣

埋葬場所: 16区 1種 5側

 佐賀県佐賀郡出身。農家の峯與八の二男(四男とするものもある)として生まれ、12歳の時に米屋の吉田祐次郎の養子となる。1923 分家。
 1904.11.14(M37)海軍兵学校卒業(32期)。同期に山本五十六(後に元帥:7-特-1-2)、吉田善吾(後に大将:16-1-5)、塩沢幸一(後に大将)、嶋田繁太郎(後に大将)、堀悌吉(後に中将)、水城圭次(後に大佐:美保ガ関事件:6-1-1-13)、井上繁則(後の大佐:13-1-27)らがいた。'05.8.31少尉。すでに日露戦争が開戦しており、訓練後、「春日」の艦長付として日本海海戦に参戦した。
 水雷学校を経て、'15(T4) 海軍大学校卒業(13期)し、第3艦隊参謀や第一水雷戦隊参謀を務めた。その後、練習艦隊参謀、教育本部員、教育局員第二課長などを経て、'23 大佐に進み、軍務局第一課長、「金剛」「陸奥」の艦長を経て、'29(S4) 少将に進級して、軍令部第2班長になった。'31 連合艦隊参謀長、'33 軍務局長となった。'34 中将に昇進し、練習艦隊司令官、日中戦争開始後は第2艦隊長官を務めた。
 '37.12.1 連合艦隊司令長官に就任。当時52歳の吉田は日本海軍史上最年少の長官就任であった。当時の情勢は緊迫しており、万一にも開戦となった際に、老齢の将軍では不安だということで、米内光政海軍大臣の意向もあっての大抜擢であった。
 連合艦隊司令長官時代は、自らイニシアチブをとり、事前に参謀たちが提出した計画を入念にチェックし、幕僚起案した計画を真っ赤になるほど赤鉛筆で訂正し、文章のテニオハまで訂正した。参謀の一人は真っ赤になるまで計画を直されたが、読み直してみると自分が起案したものよりはるかに立派なものになっていたと回想している。ただ、航空参謀の樋端久利雄(12-1-33)の計画には吉田の赤鉛筆チェックはほとんど見られなかったそうである。優れた才能と洞察力に長けていた吉田長官であったが、裏を返せば、うるさい、細かい、めんどくさい人と思われてしまっていたところもあり、一般受けは良くなかったそうである。
 その後、'39(S14) 阿部信行内閣の海軍大臣に就任。同期の山本五十六は「吉田の強味も弱味も知り尽くしています。彼の弱味は私でなければ補強できません。私を次官として残してください」と、前任の米内光政海軍大臣に頼み込んだが、留任は実現せず、山本五十六は吉田の後を継いで連合艦隊司令長官になった。山本は吉田の真面目過ぎる性格を危惧しての進言であったが、その危惧は当たってしまう。この時期は、折しも日独伊三国軍事同盟が再浮上していた時であった。吉田はアメリカとの戦争に否定的で、陸軍に引っ張られず、軍備の再検討を含め、日本の今後を研究せよと海軍省と軍令部の幹部に言い続けていた。そんな時、熱心な三国同盟推進派の外務大臣の松岡洋右から「アメリカ国民の半数はドイツ系なので、日独同盟を結べばドイツ系アメリカ人が戦争抑止に動き、アメリカとは戦争にならない」と自説を展開。これに説き伏せられた吉田は、日独伊三国同盟締結に賛成している。吉田は海軍を代表して同盟論に賛成したものの、内閣の予想に反しアメリカ軍は軍備に着手。吉田は心配のあまり強度の神経衰弱にかかってしまう。周囲が心配し辞任を勧める中、ここで自分が辞任したら国際関係に悪影響を及ぼすかもしれないと職務に励み続けた。結果、自殺未遂を起こしてしまう。日独伊三国同盟締結直前、'40.9.5(S15) 海軍大臣を辞任。後任の及川古志郎も前任の吉田が三国同盟に賛成した以上、自身が反対する訳にもいかず、同.9.27、日独伊三国同盟は締結された。
 療養後、大将に昇進して軍事参議官を務めた。太平洋戦争勃発後は、'42 支那方面艦隊司令長官となり、'43 内地に戻り、再度軍事参議官に任命され、海軍大学校長を兼務した。'44 横須賀鎮守府長官、三度目の軍事参議官、'45.6 終戦直前に予備役編入となった。戦後は公職追放。正3位 従3位 勲1等。享年81歳。

<日本海軍将官総覧>
<帝国海軍提督総覧>
<連合艦隊司令長官24人の全生涯>
<人事興信録>


墓誌

*墓石前面「吉田善吾家」、裏面「昭和四十二年十一月 吉田清 建之」。右側に墓誌が建ち、28才で亡くなった長男の浩(T3.4-S17.9.25)の刻みから始まる。次に吉田善吾が続く。戒名は海德院殿清鑒善堂大居士。妻は恒子(M26.4-S50.11.15)。二男は長男没後に当主となった清(T10.3-S55.6.30)。五女の泰子(T15.7-H21.11.1)が刻む。墓所左側に「吉田善吾提督顕頌碑」と題した碑が建ち、略歴の後に「昭和四十二年十一月 嶋田繁太郎 撰 寺岡謹平 書」と刻む。

*吉田善吾の妻の恒子は松永威一の二女。恒子の兄の松永直吉は外務省官僚。との間に2男5女を儲けている。長男の浩は早死。二男の清は海軍大尉で吉田家当主。長女の光子は柳下昌男に嫁ぎ、二女の雅子は松江一郎に嫁ぎ、三女の茂子は氏家榮一に嫁ぎ、四女の信子は石川潔、五女の泰子は井村賢に嫁いだ。



第444回 最年少の連合艦隊司令長官
日独伊三国同盟に賛成をしてしまった海軍大臣 吉田善吾 お墓ツアー


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