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といばな くりお

樋端久利雄

といばな くりお

1903.8.1(明治36)〜 1943.4.18(昭和18)

大正・昭和期の海軍軍人(大佐)、海軍甲事件

埋葬場所: 12区 1種 33側

 香川県白鳥本町伊座(東かがわ市伊座)の農家の樋端荒吉の第5子3男として生まれる。香川県立大川中学校(三本松高校)を経て、1923.7.14(T12)海軍兵学校を首席で卒業(51期)。同期に実松譲(後に大佐・戦死研究家:4-1-25)らがいる。少尉候補生となり練習艦「磐手」乗組。'24.12 海軍少尉に任官し、戦艦「長門」乗組。
 '26.9 第15期飛行学生として着任。横須賀海軍航空隊付となる。水上機母艦「能登呂」乗組。霞ヶ浦海軍航空隊教官を務めた。海軍は首席卒業者を危険を伴うパイロットにはしたくなかったが、樋端はパイロットを果敢に挑戦した。
 '29(S4)フランス駐在日本大使館付武官補佐官。軍令部付国際連盟代表随員としてジュネーブ軍縮会議に同行。'32横須賀海軍航空隊分隊長。樋端の考案した九二式爆撃照準器が採用される。また空母の飛行機は全部集め集団として使用し、総合的に攻撃力を発揮すべきとした。
 '33.12.1 海軍大学校(甲種33期)を入学し、'35.11 海軍大学校を首席で卒業(33期)。軍令部第1部第1課部員兼出仕。
 日中戦争に支那方面艦隊兼第三艦隊参謀として出征し、中支那派遣軍参謀も兼ねた。このとき、'37.12.12 揚子江で日本海軍機が米国河川砲艦「パナイ」を攻撃し沈没させた「パネー号事件」が起こる(日本側が謝罪し賠償金を払い事態収拾)。重慶爆撃の際は、爆撃機と戦闘機で向かっては不利だからと敵戦闘機の燃料が途切れるまで待ち爆撃を敢行する「樋端ターン戦法」を編み出し空中戦に度々勝利した。
 '38.12 吉田善吾(16-1-5)連合艦隊司令長官の下での連合艦隊参謀に着任。'39.11.15 中佐に進級し、第15航空隊飛行長に就任した。'40.11.15 海軍省軍務局第1課A局員となり、一年後、'41.12.8 太平洋戦争開戦。
 ミッドウェー海戦後、'42.11.20 山本五十六(7-特-1-2)連合艦隊司令長官に着き連合艦隊航空甲参謀に就任。自ら「い号」作戦を模索したが戦果を得ることなく時が経っていた。'43.4.18 山本五十六長官に随行し、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島ブイン上空で、待ち構えていたアメリカ陸軍航空軍「P-38戦闘機」に奇襲され、乗機「一式陸上攻撃機」は撃墜され山本五十六らと共に殉じた(海軍甲事件)。享年39歳。没後海軍大佐に特進し、勲2等追贈。
 当時の海軍首脳部は戦局の劣勢が国民に知られることを恐れ、山本長官の偉大さをひたすら強調することによって戦意の高揚をはかろうとしたため、同行していた参謀たちの死を公表しなかった。後に樋端の戦死が知らされると若手将校たちから「長官に代わりはあるが、樋端に代わる人材がいるか、日露戦争において日本海海戦を大勝利に導いた秋山真之参謀に匹敵するとも言われる逸材を失った海軍の損失は余りにも大きい」との声があがった。海軍大佐で戦後航空自衛隊の育ての親と称された源田実は「この人に全海軍の作戦を預けて存分にその明快極まる脳味噌を働かせてもらいたかった。この人がもっと永く生き残り、もっと働ける立場にあったならば、太平洋戦争の様相はもっと変わっていたかもしれない」と回想している。
 「帝国海軍の至宝」「昭和の秋山真之」と評され将来を嘱望された樋端の戦死をしばらく隠していたため、戦後の海軍戦史に名が出ることが少なかったが、'92(H4)衣川宏(海兵78期)の『ブーゲンビリアの花』が出版され樋端の名が世に知られるようになった。

<陸海軍将官人事総覧>
<『ソロモンに散った聯合艦隊参謀 伝説の海軍軍人樋端久利雄』高嶋博視 など>


*和型「樋端家之墓」、裏面は「昭和十九年四月十八日 嗣子 樋端一雄 建之」。右面は「盡空院悠久武勲大居士 昭和十八年四月十八日戦歿 行年四十一歳」と刻む。左面は墓誌となっており妻の千代と平成11年に当才で亡くなった水子が刻む。

*妻の千代の父は海軍大佐の井上繁則(13-1-27)。井上繁則は山本五十六と兵学校時代の同期。1928.12.30(S3)久利雄と千代は結婚。一男一女を儲ける。長男の樋端一雄は新聞記者。


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