東京市千駄ヶ谷出身。父は海軍元帥の山本五十六・禮子(共に同墓)の長男。結婚5年目で、五十六が40歳の時の待望の嫡男である。父の勤務先に家族が呼び出されたときは現地に赴いた。よって五十六が霞ヶ浦海軍航空隊教頭兼副長時代は霞ヶ浦、その後は、鎌倉、青山南町に住む。ハリス記念鎌倉幼稚園、鎌倉第一小学校、6年生からは青南小学校に通った。
1935(S10)父と同じ海軍軍人を目指すべく、父の念願通り府立第一中学校に入学。五十六は父兄会理事に就任している。しかし、病気がちであり風邪をこじらせては微熱が続くことが多く、この時期は中耳炎、肺門琳巴炎、乾性肋膜炎、湿性肋膜炎と、矢継ぎ早に病気となり、五十六の書斎を病室がわりにして伏せっていた。庭には三十メートル近い高さのあるユーカリの木がそびえており、父は病床にいる義正に「あの木のように強くなれ」と言ったエピソードがある。海軍兵学校を目指すもこのような健康上の理由や近眼や肋膜炎の影響から断念し、成蹊高等学校理科甲類に進む。
'43.4.18 在学中に父の山本五十六戦死。戦死の報は2日後、同.4.20 極秘裏に伝えられた。この時、妹の澄子は山脇高女を卒業したばかりで、妹の正子は同高女在学中、弟の忠夫は青南国民学校6年生だった。同.5.21 五十六戦死が国民に発表される。同.5.22 戦艦「武蔵」に乗せられた遺骨が帰還。同.5.23 遺骨が東京駅に到着。6月1日、自宅でお通夜。喪主は義正がつとめた。そして、6月5日、葬儀委員長を米内光政が務め「国葬」が行われ、遺族として参列。約10日ほど続いた国葬の喪主をつとめあげた。
東京帝国大学農学部に進学。籍を置いたまま父の願いであった海軍に志願しパイロットを目指す。'45 海軍整備予備学生(10期)として厚木第302航空隊に着任。「雷電」の整備分隊士を務めながら、防空壕掘りに従事。赴任して1カ月も経たないうちに終戦を迎えた。しかし、302航空隊を指揮していた小園安名は徹底抗戦とその準備を指示される。小園を中心とした会議で自分を海軍省への連絡要員にしてもらいたいと意見し、連絡将校として海軍省に赴くよう命じられた。海軍省にて澤本頼雄(10-1-10)の次男の澤本倫生(海軍中尉)と対面し、小園の気持ちと終戦の事実に関して、「押し付けだけでは納得しないだろうから、懇切丁寧に終戦を説明してはどうか」と要請している。これにより海軍は「厚木の叛乱」を知ったという。義正は家族ぐるみの付き合いをしていた堀悌吉(海軍中将・五十六と同期)や軍令部内に勤務していた遠縁の山口捨次(海軍大佐)らのアドバイスをもらい、原隊に戻る。この間、小園は病を発しており部屋に閉じ込められていた。その後、「厚木の叛乱」は沈静化。叛乱そのものに関して「302空全体で騒いでいるという感じではなかった」と回想している。
ほどなくして、大船の航空事務部へ転勤を命じられ、9月下旬で復員。東京帝国大学農学部に復学して卒業。同大学院修了。卒業後は、水産・製紙・電子機器会社の開発・研究エンジニアとして勤務した
'65.5.5 母の禮子が亡くなる。同年、阿川弘之が『山本五十六』を刊行し、五十六の愛人関係や多くの手紙が公になる。その後、山本五十六関連書物が多く出版される中、遺族の目線として、'69『父・山本五十六』を刊行。書籍は無口ながらも子煩悩な父、故郷・長岡の水まんじゅうを喜んでいくつも食べた父、部下の死を心から悲しみ、遺族の前で号泣した父。息子の目に映った山本五十六は愛情深く、繊細で、過酷な運命と職務に傷ついていた。太平洋戦争の幕開けを担った軍人の素顔を描いた書である。
『山本五十六の生涯』(著:工藤美代子:2011刊行)では、五十六の長男の義正が父親に妻以外の女性関係があったことを知っていたという記述がある。有名な二人の愛人だけでなく、五十六は苦労人が多い花柳界の女性たちを単なる遊び相手として見ず、あの時代には非常に珍しく対等な関係として話をしていたことから、女性たちは五十六の優しさに惹かれる芸妓が多く、加えて筆まめであったことから、多くの手紙が実家にも届いていたとのこと。多くの芸妓は五十六戦死後も大切に心に秘めたままにしていたのだが、河合千代子は五十六の手紙を公開し、マスコミの取材にも応じたため彼女だけが有名になっていったそうだ。「はっきりいって、山本家としては、大変迷惑をしました」 と義正は静かだが毅然とした口調でいったとされる。享年91歳。