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さわもと よりお

澤本頼雄

さわもと よりお

1886.11.15(明治19)〜 1965.6.29(昭和40)

明治・大正・昭和期の海軍軍人(大将)

埋葬場所: 10区 1種 10側

 山口県出身。澤本浪平の3男として生まれる。長兄の澤本与一は読売新聞や新潟新聞主筆を経て衆議院議員となった。次兄の時祐は叔父の澤本友助の養子となった。
 1908.11.21(M41)海軍兵学校を次席・恩賜で卒業(36期)。同期には皇族の有栖川宮栽仁王や南雲忠一(後に大将)、隻腕の司令官で最後の海軍大将の塚原二四三(22-1-76)らがいた。なお首席は同郷の佐藤市郎(後に中将)で岸信介や佐藤栄作の兄である(安倍晋三の大伯父)。
 卒業後、霧島・常盤・河内分隊長を務め、'19.12.1(T8)海軍大学卒業(17期)。海上、陸上のエリートコースをバランスよく往復したが、陸上では軍政系の勤務が多くあった。第3水雷戦隊から人事局員第1課を経て、2年間イギリスに駐在。
 '27.11.30(S2)連合艦隊先任参謀、'28.12.10 大佐に昇進し天龍艦長に就任。'29.5.1 出仕、同.8.2 軍務局第1課長を務める。'32.11.1 重巡「高雄」艦長、'33.11.15 戦艦「日向」艦長をへて、'34.11.15 出仕。'35.3.15 海軍大学教頭、同.11.15 艦政本部総務部長を経て、'37.12.1 第7戦隊司令官に着任し日中戦争に出征。'38.11.15 中将に進み、同.12.15 出仕。'39.4.1 練習艦隊司令官、同.12.23 海軍大学校長、'40.10.15 第二遣支艦隊司令長官を歴任した。
 '41.4.4 及川古志郎海軍大臣の海軍次官に就任。日米開戦に対しては反対・避戦の立場をとり、第3次近衛内閣が総辞職し東條英機内閣が成立する際に、及川古志郎は後任の海軍大臣として豊田副武を推薦した。しかし豊田の陸軍嫌いは陸軍側に周知のことであり、陸軍は当然としてこれを拒否、澤本はこれを好機として内閣の流産を期待したが、結局、嶋田繁太郎が海軍大臣に就任した。
 日米開戦の決定についても、次官として開戦は承服しかねると、嶋田海軍大臣に強硬に進言した。押してダメならばと、自信がないので次官を辞めさせてほしいとも嶋田に頼んだ。しかし嶋田大臣は、澤本の大将昇進と連合艦隊司令長官への補職をちらつかせたために翻意してしまった。これに関して澤本は後年非常に悔いたと振り返っている。最終的には開戦論に屈服せざるを得ず、結局、太平洋戦争中は海軍次官を三年間務めた。なお、海軍次官時代に書いた日記『澤本頼雄海軍次官日記--日米開戦前夜--開戦か避戦か』が戦後公になり、軍事史学の重要資料とされている。
 '44.3.1 約束通り大将昇進し、軍事参議官 兼 海軍次官事務取扱になった。同.7.17 呉鎮守府司令長官となり、同.8.15 勲1等旭日大綬章。'45.5.1 軍事参議官となり、夢の連合艦隊司令長官にはなれずして、そのまま終戦を迎えた。同.9.5 予備役編入。
 敗戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)で開戦時の陸軍・海軍の政策担当局長以上のポストにあった六人のうち、五人は逮捕、起訴されたが、澤本のみ除かれた。
 戦後は、'55.9.24(S30)防衛庁顧問に就任。元海軍正規将校の団体「水交会」の理事長や会長を務めた。正3位 従4位 勲1等。享年78歳。

<コンサイス日本人名事典>
<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍将官総覧>
<人事興信録>


*墓石前面は「澤本家墓」、裏面「昭和十四年三月 澤本頼雄 建之」と刻む。右側に墓誌が建つ。前妻の初子から刻みが始まる。初子(S10.8.14没・行年49才)は同郷の山口県出身で田島欽次郎の長女。次に澤本頼雄が刻む。戒名は誠實院釋智徳頼雄大居士。その左に「正三位 勲一等 海軍大将」と刻む。その次に後妻の素子(H5.9.16没・行年90才)。素子は東京出身で実業家の沼田政二郎の二女。長男の太華生は日本特殊陶業会長の森村勇の養子となったため、澤本家を継いだのは二男の澤本倫生(T12-H16.8.10没・行年80才)。



第465回 日米開戦に反対 戦後も裁かれなかった海軍大将
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