メイン » » » 塚原二四三
つかはら にしぞう

塚原二四三

つかはら にしぞう

1887.4.3(明治20)〜 1966.3.6(昭和41)

大正・昭和期の海軍軍人(大将)

埋葬場所: 22区 1種 76側

 福井県出身。塚原開太郎の5男として生まれる。本籍は山梨県で甲府中学校で学ぶ。
 1908(M41)海軍兵学校卒業(36期)。'20(T9)海軍大学卒業(18期)。航海術専攻から、'21 横須賀航空隊勤務以後、航空に転向。以後、空母赤城艦長、第2連合航空隊司令官などを務める。1930年代になると戦時における航空戦術が発達、各部隊に新規の航空部隊が新設されていく。こと陸上飛行場を基地とした航空機による敵地空襲は戦術上重要度が増した。こうした時代において、塚原は航空畑一筋の司令官として重用される。
 '38(S13)海軍で最初の陸上攻撃部隊である第1連合航空隊司令官となった。翌年、中国の漢口に司令部を置く。このとき、行事のために部隊が集結していたところ、中国軍機(SB爆撃機九機)の奇襲爆撃を受け、多数の幹部が戦死した中、塚原は左腕を失う重症を負いながらも一命をとりとめる。
 半年間の療養で回復した塚原は、隻腕義手の司令官としてマレー攻略の航空支援部隊である第11航空艦隊司令長官に着任。太平洋戦争開戦時には塚原の指揮下となる航空兵力は陸上攻撃機224、偵察機60、飛行艇24、艦上攻撃機126であり、この大部隊を率いた。'42 第11航空隊がジャワ沖海戦で大戦果をあげた。ボルネオ島東部パリックパパンに駐留、ジャワ周辺の制空権を確保せんと猛攻を展開。スラバヤ、マラン、マジュンなどの敵基地を撃破。敵機撃墜62機、大破24機、地上基地破壊などの戦果をあげ、その際、塚原部隊の損害はわずか5機であった。さらに太平洋上にて発見した敵艦隊を爆撃、アメリカの重巡洋艦ヒューストンほか数隻を大破させた。加えて、バリ島デンパサール、ジャワ島スラバヤの敵飛行場を攻撃、地上施設の破壊および残存航空機の破壊に成功。こうした戦果により、ジャワ方面への侵攻は順調に進んでいった。塚原は大戦果により「隻腕の司令官」として功名を成した。ただその後、同.10 マラリアにかかり内地に帰還を余儀なくされ、第一線を退くことになった。
 内地では航空本部長から軍令部長に昇格。'44 海軍の統括機関である横須賀鎮守府長官となった。'45.5 井上成美(21-1-3-18)とともに最後の海軍大将に任ぜられた。以後終戦まで軍事参議官を務めた。正4位 従3位。享年78歳。

<日本海軍将官総覧>
<帝国海軍提督総覧>


*墓石は和型「塚原家之墓」、裏面「昭和四十五年九月吉日 塚原梧郎 建之」。墓所右側に小さめの和型「塚原妙子之墓」、裏面「昭和十七年六月 塚原二四三 建之」、左面に戒名や没年月日行年が刻む。妙子は塚原二四三の長女で23才(S17.7.17歿)の若さで亡くなった。

*墓所左側に墓誌が建つ。塚原二四三から刻みが始まり、「海軍大将」の刻みもある。戒名は海澄院殿四明日暉大居士。妻は壽美恵(S58.10.3歿・87才:旧姓は輿石)。二人の間には2男2女。長男は塚原悟郎(S58.12.4歿・60才)。二男は塚原次郎(H12.3.27歿・68才)。次郎は三和銀行に勤めた銀行家。二女の塚原文子は須田堅太郎に嫁いだ。



第439回 片腕が吹き飛んだ 隻腕の司令官
最後の海軍大将 塚原二四三 お墓ツアー


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・た行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。