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うがき まとめ

宇垣 纏

うがき まとめ

1890.2.15(明治23)〜 1945.8.15(昭和20)

昭和初期の海軍軍人(中将)

埋葬場所: 20区 1種 8側 18番

 岡山県赤磐郡潟瀬村(岡山市東区瀬戸町)出身。父の善蔵は小学校教師を勤める傍ら水田農業を営んでいた。宇垣の生家のある集落はほとんど宇垣姓であり、陸軍大将の宇垣一成(6-1-12-1)は隣家であり、また海軍中将の宇垣莞爾や海軍少将の宇垣環もその一族で直接の血縁関係ではないが遠縁にあたる。幼少の頃より隣家の宇垣一成に憧れ軍人を志したという。
 1912.7.17(M45)海軍兵学校卒業(40期)。同期に福留繁(後の中将:6-1-6)らがいる。少尉候補生となり、'13.12.1少尉、'15.12.13中尉、'18.12.1大尉と進級。'19(T8)海軍砲術学校高等科学生を次席で修了。'24.11.26海軍大学校卒業(22期)。同期に井上成美(後の大将:21-1-3-18)らがいた。同.12.1少佐となる。ドイツ駐在や第2艦隊参謀などを経て、'32.11.15(S7)海軍大学・陸軍大学の教官。同.12.1大佐に進む。'35.10.30連合艦隊首席参謀、'36.12.1装甲巡洋艦「八雲」艦長、'37.12.1戦艦「日向」艦長を任ぜられる。
 '38.11.15少将に昇進し、軍令部出仕となり、同.12.15軍令部第一部長に補される。日独伊三国同盟締結は米国を挑発する行為であり、日米戦争の引き金になる可能性が高まると一貫して反対の立場を取った。'39紀淡海峡の防備、潜水艦監視攻撃等の特別演習を主宰。'40親独ムードの盛り上がりから海軍の反対は国内政治事情が許さぬと海軍首脳部が総じて同盟締結に賛意を示したことにより、宇垣自身も参戦の自主性維持(自動参戦の禁止)を条件に同盟締結に賛成した。
 '41.4.10利根型重巡洋艦2隻(利根、筑摩)によって編成された第8戦隊司令官を拝命。同.8.1連合艦隊参謀長(兼第一艦隊参謀長)に就任。長官は山本五十六(7-特-1-2)。同.10.16より没する当日まで『戦藻録(せんそうろく)』の日誌を書き始める。同.12.8太平洋戦争勃発。
 '42.6.5ミッドウェー海戦では、第一航空艦隊の主力空母が次々に被弾炎上し参謀たちがパニックに陥ったが、宇垣は冷静に対応して参加部隊を統率して撤退させた。敗因を振り返り「今日の敵は正に飛行機」として高角砲の射程延長やレーダーの活用、対潜水艦装備の拡充が必要と認識した。戦死者3057人という負け戦にも関わらず、艦隊首脳部はお互いに傷をなめ合い人事の動きはなくそのままの職に留まり、同.8上旬よりガダルカナル島の戦いが始まる。その後も南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、い号作戦などを指導する。同.11.1中将に進級。
 '43.4.18山本五十六と共に一式陸上攻撃機2機に分乗して前線視察のためラバウルからブインに向かっている中、待ち伏せしていた米軍機に襲撃され、山本搭乗機・宇垣搭乗機ともに撃墜された。山本は戦死、宇垣も負傷した(海軍甲事件)。宇垣は山本の遺骨と共に、戦艦「武蔵」で内地に帰還。その後、山本の形見として短刀を貰う。陣中録には「かねて山本長官身代わりたらんと覚悟せる身が、長官を失い、かえって生還す」と記してある。同.5.22戦傷により軍令部出仕。九か月間の療養の末、'44.2.25第1戦隊(大和、武蔵)司令官に復帰。再び戦場に赴き、5月の第三次渾作戦、6月のあ号作戦、10月のレイテ沖海戦に従事。同.11.15軍令部出仕。
 '45.2.10第5航空艦隊司令長官に就任し、鹿屋の司令部に着任した。軍令部、連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われ、宇垣は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させた。同.2.16アメリカ軍が硫黄島に対して攻勢を開始、連合艦隊は丹作戦部隊の編成を発令したため、同.2.20特別攻撃隊の編成を下令し、同.3.11鹿屋基地から3千キロ離れた米軍機動部隊本拠地ウルシー環礁に対して、陸上爆撃機「銀河」24機による特攻作戦「第二次丹作戦」を敢行。12機が特攻し空母を1隻大破させた。その1週間後、本土空襲に来襲した米軍機動部隊に対し、3日間の通常攻撃及び70機の特攻機を散発的に出撃させ攻撃(九州沖航空戦)。同.4.6沖縄戦では特攻を主体とした米艦隊への海軍の航空総攻撃作戦である菊水一号作戦が発動されると、一日の出撃数としては海軍特攻として過去最多の161機を出撃させた。その後も菊水作戦は6月以降まで行われたが兵力の枯渇や、散発的な使用により、大きな戦果を挙げられなかった。同.8.10第3航空艦隊司令長官に親補されるが着任せず終戦を迎えた。
 同.8.15早朝、沖縄積極攻撃中止の命を受けたが、宇垣は「彗星」を5機用意するように部下の宮崎隆先任参謀、田中武克航空参謀、中津留達雄大尉に命じた。11機の「彗星」が用意された。これに対し宇垣は「命令は5機」と発言したが、指揮所前には22名の搭乗員たちが整列しており、そのことについて宇垣が問いかけると、中津留大尉は「出動可能機全機で同行する。命令が変更されないなら命令違反を承知で同行する」と答えたという。正午、玉音放送後、宇垣は中津留大尉の操縦する彗星43型に搭乗する。彗星43型は2人乗りだが、遠藤秋章飛曹長が交代を拒否したため、宇垣、中津留、遠藤の3人が乗ることになった。第12航空戦隊司令官の城島高次少将、幕僚である先任参謀の宮崎隆、参謀長の横井俊之から「死を決せられる気持ちは理解できるが、戦後処理や、国家的な責任の問題もあるため、なんとかとりやめることはできないか」などと翻意を促されたが、宇垣は「武人としての死に場所を与えてくれ」と決意は揺らぐことはなかった。山本五十六の形見の短刀を持ち搭乗。特攻隊は合計11機23名(途中3機が不時着、5名生存)で、沖縄沖に向かって大分基地から離陸した。宇垣機からは訣別電があり、続いて「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に連絡は途絶えた。享年55歳。なお特攻による米軍に被害はなく、米軍側からの宇垣特攻隊は確認されていない。翌朝、沖縄の伊平屋島の岩礁に突っ込んでいる彗星機を米軍が発見。機体から3人の遺体を収容。飛行服を身に付けていない遺体の所持品に短刀が発見されたとされる。
 連合艦隊司令長官の小沢治三郎は「皇軍の指揮統率は大命の代行であり、私情を以て一兵も動かしてはならない。玉音放送で終戦の大命が下されたのち、兵を道連れにすることはもってのほかである。自決して特攻将兵のあとを追うというのなら一人でやるべきである」と述べ、宇垣たちに対する感謝状を起案させなかった。宇垣はポツダム宣言受諾後に正式な命令もなく特攻を行ったため、戦死とは見做されず大将昇級も行われていない。また玉音放送後の出撃で17名の部下を犠牲にしたとして遺族の非難も受けた。停戦命令後の理由なき戦闘行為を禁じた海軍刑法第31条に抵触しているという意見もあると同時に、玉音放送を「停戦命令」「終戦」と解釈できるかどうかを巡って見解が分かれており、8月16日16時に発せられた大陸命第1382号および大海令第48号を正式な停戦命令もしくは、9月3日の条約締結を正式な停戦とする意見もある。
 戦没者とは認められず、戦後しばらくは靖国神社に合祀されていなかったが、現在は合祀されており、遊就館の常設展示に宇垣を取り扱ったコーナーも存在する。また没後に勲1等旭日大綬章を追贈された。'72.9.17郷里である岡山県護国神社の境内に彼と部下の慰霊碑が建立された。
 宇垣の陣中日記『戦藻録』に関して、GHQ戦史室長ゴードン・プランゲは第一級資料として評価。'52長男の宇垣博光は「宇垣纏 日記」『大東亜戦争秘記 戦藻録(前篇/後篇)』を刊行している。

<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍総覧>
<城山三郎「指揮官達の特攻−幸福は花びらのごとく」など>


*墓石正面「宇垣家之墓」。妻は知子(ともこ)。特攻前の昭和15年春に流行病により病没されている。長男の宇垣博光は海軍軍医大尉として原爆を投下された広島にて被爆者たちの治療にあたった人物である。戦後は東京慈恵医大の医学博士。

*墓誌には先に「海軍中将 正四位 勲一等 功三級」と刻む。当初は玉音放送後の特攻死であったため戦没者とは認めらていなかったが、'69.12.24(S44)公務死と認められ靖国神社にも合祀されたため、従三位 勲一等旭日大綬章が追贈され、墓誌にも上に後から加える形で刻む。「宇垣纏命 昭和二十年八月十五日 戦死 享年五十六」と戦死と刻み、横に「部下ヲ率ヒ九機ヲ以テ沖縄海面ニ特攻」と刻む。妻は知子(S15.4.26帰霊・享年43)、長男の宇垣博光(S42.6.10帰霊・享年47)は「正五位 勲六等」と刻む。博光の妻は冨佐子(H28.9.10帰霊・享年90)。

*特攻前の5年前(昭和15年春)に妻の知子を流行病により病没され亡くしている。5年祭を終えた後の夏に特攻した。



第132回 最後の特攻 宇垣纏 お墓ツアー


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