熊本県出身。海軍中将の内田虎三郎(同墓)の長男。1924.7.24(T13)海軍兵学校を次席(236名中)で卒業(52期)。同期に高松宮宣仁親王がいた。少尉候補生となり、'25.12.1少尉に任官。'27.12.1(S2)中尉になり呂64乗員、'30.12.1大尉となり日向分隊長、'32.12.1榛名分隊長、'33.11.1三日月砲術長を経て、'35.11.15少佐に昇進して第1水雷戦隊参謀となった。
'40.11.15中佐に進級し、大本営海軍参謀 兼 軍令部第一部第一課(作戦部作戦課)に着任。山本五十六(7-特-1-2)らと対米英蘭作戦主務・対米作成計画の正規担当者を務めた。真珠湾作戦の際の軍令部の主務参謀として対米作戦担当。'41.12.8日本海軍航空隊によるアメリカ領ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する真珠湾攻撃(日本時間午前3時19分・ハワイ時間午前7時49分)が開始され、太平洋戦争が勃発。'42.7.10第7戦隊先任参謀に就任。'44.10.15大佐に昇格して終戦を迎えた。
戦後、'56(S31)2月号「人物往来」所収の「海軍作戦計画の全貌」(新人物往来社 刊「日米開戦と山本五十六」)で、真珠湾作戦や山本五十六の人間的魅力など、軍令部参謀として関わった海軍機密室の全貌を公開した。公開した一か月後に逝去。享年52歳。
「海軍作戦計画の全貌」で特筆すべき事柄は、戦後に軍令部の反対を押し切って山本五十六が真珠湾攻撃をしたという説に関して否定している。内田は「軍令部は真珠湾空襲に当初は反対であったとの言説は疑問で、ハワイ空襲実施を前提に総ての計画が準備されていた」と記している。軍令部並びに第二艦隊司令部(南方攻略部隊)と、第一航空艦隊(機動部隊)司令部との間で、空母六隻全てを真珠湾に投入するか、若干を南方作戦に割くかで意見の差違調節が問題となったが、「数回の往復を経てそれぞれ適当な所に落付いた」とも語っており、山本五十六が無理矢理に軍令部に真珠湾作戦を押し付けたという批判とも事実に反することがわかった。その他、貴重な内部情報が語られ「海軍作戦計画の全貌」は、共著『日米開戦と山本五十六 日本の論理とリーダーの決断』(2011)にも取り上げられた。