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うちだ こさぶろう

内田虎三郎

うちだ こさぶろう

1872.8.4(明治5.7.1)〜 1954.11.29(昭和29)

明治・大正期の海軍軍人(中将)

埋葬場所: 3区 2種 40側

 熊本県出身。1895.12.21(M28)海軍兵学校卒業(22期)。海軍少尉候補生で金剛乗組となる。1896.10.2高雄乗組を経て、1897.1.26少尉任官となり、同.8.25扶桑乗組、同.12.28高雄乗組、1898.7.8笠置回航委員として米国出張した。1898.8.6笠置乗組、同.10.1中尉に進み、1899.5.16帰着。
 1900.1.12笠置分隊長心得、同.9.25大尉に昇進し、笠置分隊長、次いで'01.2.14愛宕航海長となった。同.6.7海軍大学校乙種学生となり、'02.7.8待命となるが、同.7.17直ぐに松島航海長 分隊長、同.11.24松島分隊長、'03.9.11笠置航海長として日露戦争に従軍。'05.2.13海軍兵学校航海術教官 監事、同.8.5少佐となり、翌年から海軍大学校甲種学生に戻る。同.4.1日露戦争の功で功五級金鵄勲章。
 '07.12.18海軍大学校甲種卒業(5期)。同期に清河純一(後の海軍中将:11-1-10-12)、松村菊勇(後の海軍中将:10-1-2)らがいた。佐世保鎮守府参謀 望楼監督官を任ぜられた。'09.2.1海軍省軍務局員を経て、'10.12.1中佐になり、'11.12.1艦政本部艤装員 金剛回航委員として英国出張。'12.12.1(T1)金剛航海長 艦政本部艤装員、'13.8.16金剛航海長、同.11.5帰着した。'14.3.23 海軍大学校教官、同.8.20比叡副長となったが、同.12.1再び海軍大学校教官。'15.11.7勲3等旭日中綬章。同.12.13大佐に昇進し、矢矧艦長に着任。
 '16.12.1浅間艦長、'18.7.17安芸艦長、同.11.10摂津艦長を歴任し、'19.6.10第三艦隊参謀長に就任。'20.11.20舞鶴鎮守府参謀長心得、同.12.1少将に進級し、舞鶴鎮守府参謀長に任ぜられた。'22.3.29勲2等瑞宝章。同.12.1軍令部出仕。'23.6.1海軍省の外局の水路部の部長に就任。3年前の大正9年に水路部令が制定され、水路部は水路の測量、兵要海象の観測、水路図誌、航空図誌の調整準備、保管・供給、航海、航空保安に関する事項を行った(戦後は運輸省に移管)。
 '24.12.1中将に累進し、軍令部出仕。'25.3.2待命、同.3.20予備役。同.4.15正4位。'34.7.1(S9)後備役編入され、'39.7.1退役。正4位 勲2等 功5級。享年82歳。

<帝国海軍提督総覧>


墓所

*墓石は和型「内田家之墓」。左面に「昭和二年建之 海軍中将 内田虎三郎」と刻む。墓所右側に墓誌がある。墓誌から推測するに、登直子が前妻で、龍子が後妻であろうか。前妻との長男は海軍大佐で真珠湾攻撃の時の軍令部参謀を務めた内田成志(同墓)。


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