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こくしょう ゆきたか

國生行孝

こくしょう ゆきたか

1885(明治18)〜 1945.3.26(昭和20)

明治・大正・昭和期の海軍軍人(大佐)

埋葬場所: 8区 2種 30側

 鹿児島県出身。1909.11.19(M42)海軍兵学校卒業(37期)。同期に井上成美(後の大将:21-1-3-16)、北川茂春(後の少将:26-1-39)らがいた。少尉候補生を経て、'11.2.27少尉に任官。'12.12.1中尉。'15.12.13(T4)大尉となり、満州航海長に任ぜられた。
 '18.12.1対馬航海長、磐手航海長心得、'20.6.1能呂艤装員、同.8.1航海長を兼務を歴任し、'21.12.1少佐に進み、香取航海長、水路部員となった。'28.12.10(S3)中佐。'30『海図の話』を著す。'31古鷹副長を経て、'33.11.15洲崎艦長に就任した。'34.2.20〜同.11.15 大和(スループ)特務艦長を任ぜられる。この船の最後の館長となる。なお初代艦長は中佐時代の東郷平八郎(7-特-1-1)。同.11.15大佐に昇進し待命、予備となった。正5位、勲3等。享年59歳。

<日本海軍士官総覧など>


墓所 原石鼎の句

*墓石は和型「國生家之墓」。裏面は「昭和十八年 國生行孝 建之」と刻む。左面が墓誌となっており、戒名は春壽院行雲孝道居士。「海軍大佐 正五位 勲三等」と刻む。また行年60才と刻む。妻は他美子(S20.5.26 51才歿) 。

*墓所には墓石の右側に俳人の原石鼎の句『蔓踏んで一山の露動きけり』碑が建つ。この句は1914(T3)につくった作品であり、小さな蔓を踏んだだけで大きな一山の露が動くというダイナミズムな句として有名。なお、原石鼎(はら せきてい)の墓は島根県出雲市塩冶町にある神門寺。


國生直扶 戦歴

『國生直扶 「戦歴」碑』
 海軍少佐 従六位 勲四等 功五級 国生直扶
 昭和十三年海軍兵学校を卒業するや、直に支那事変に従事し、就中 昭和十四年バイヤス湾上陸作戦。同十六年海南島及び、福州等 各種作戦に参加し、南支一帯の警備に任じたる 外南部佛印進駐作戦にも参加して精々たる武勲を樹てたり。大東亜戦争勃発するや一艦・通信長として南洋方面に出動 比島 ジャワ 印度洋等の作戦に奮戦し抜群なる偉功を樹てつつありしが、昭和十七年九月廿五日ソロモン海域に於て敵重爆撃機と交戦中壮烈なる戦死を遂ぐ。

*國生直扶は、府立四中を経て、1938.3.16(13)海軍兵学校卒業(65期)。第一大隊としてショートランド近郊にて戦死。戒名は彰忠院龍潭直心居士。行年27才。


國生眞三郎 戦歴

『國生眞三郎「戦歴」碑』
 海軍大尉 正七位 勲六等 国生眞三郎
 昭和十八年九月 海軍機関学校卒業するや直ちに航空整備学生として、霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。教育期間を経て、昭和十九年三月には、海軍少尉に任官と同時に、横須賀航空隊に配属。其の後、岩国 指宿 各航空隊に転属。同年九月に海軍中尉に進級。所属部隊と共に比島へ出征す。米軍比島に上陸するや戦局益々悪化し、北韮航空隊と合流。最後の戦闘部隊として昭和二十年五月二十七日イロイロ島に於て、壮烈なる戦死を遂ぐ。

*國生眞三郎は、府立四中を経て、海軍機関学校卒業(53期)。戒名は忠峰院碧雲眞海居士。行年23才。


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