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いわむら みちよ

岩村通世

いわむら みちよ

1883.8.21(明治16)〜 1965.3.13(昭和40)

昭和期の検察官僚、政治家

埋葬場所: 9区 1種 19側

 東京市神田区神保町出身。号は素竹。農商務大臣を務めた岩村通俊の五男。 幼少時は病弱であり、また父が北海道庁長官になったため、父の実家の高知県宿毛で叔父の林有造に預けられ育つ。
 宿毛小学校、高知県立第一中学校(追手前高校)、第六高等学校を経て、1910(M43)東京帝国大学法科大学独法科卒業。 司法官試補として甲府地方裁判所に赴任。'31(S6)名古屋地方裁判所検事正。後、初代の思想検事となり、八幡製鉄疑獄の応援検事、帝人事件担当の東京検事正、天皇機関説事件などの指揮をとる 。'35司法省刑事局長、大審院検事次長、司法次官、'40検事総長を歴任。この間に神兵隊事件、ゾルゲ事件を処理した。
 '41(S16)第3次近衛文麿内閣の司法大臣に就任、次いで東條英機内閣の司法大臣留任となる。 尾崎行雄不敬事件、中野正剛事件に関係しながら東條に協力しファシズム体制の中、戦時下の法体制を確立させた。 '44内閣総辞職に伴い退任。その間に手掛けた法律の主なものは、言論・出版・集会・結社の臨時取締令、食糧管理法公布、裁判所構成法戦時特令、戦時民法特別法、戦時刑法特別法、司法省の行政簡素化、決戦非常措置要項決定など多くの重大な法律を制度化した。 通世はこれに身命を賭して取り込み戦争完遂に努力した。
 敗戦後の'45.9.11、司法大臣として太平洋戦争開戦時の開戦の詔書に副書したことなどから、A級戦犯第一次戦犯指名を受け逮捕され、横浜刑務所収容、拘禁。 次いで大森収容所に転送、最後は巣鴨刑務所に移され、満3年間戦犯容疑として厳しい裁判を受けたが、戦犯として罰するものはなく、'48.12岸信介らとともに無罪で釈放された。 晩年は、'49東京家庭裁判所調停委員、家庭裁判所参与員と活動する傍ら、戦争受刑者世話会常務理事、日本調停協会連合会理事長、土佐協会理事長を務めた。 また東京弁護士会に加わり、弁護士として恵まれない被告の援護をするなど社会事業に専念した。著書に『禅問答百話』。正三位勲一等。享年81歳。

<コンサイス日本人名事典>
<高知県人名事典>
<東京裁判の100人など>


【岩村家】
祖父岩村英俊1804-1882幕末宿毛の名士・土佐藩陪臣谷中霊園乙12-9に眠る
父・
英俊長男
岩村通俊1840-1915土佐藩宿毛領主の重臣・男爵・地方長官・農商務大臣・宮内顧問官谷中霊園乙12-9に眠る
兄・
通俊長男
岩村八作1864-1914男爵・北海道開拓者・岩村農場創設者谷中霊園乙12-9に眠る
兄・
通俊二男
岩村俊武1866-1943海軍中将・東郷乃木の参謀13-1-51-18
甥・
通俊長男
岩村和雄1902-1932舞踊家13-1-51-18
兄・
通俊三男
丘浅次郎1868-1944動物学者・エスペラント主義者
甥・
浅次郎長男
丘英通1902-1982動物学者・東京教育大学名誉教授
甥・
浅次郎二男
丘直通1909-1991動物心理学者・東京教育大学教授
兄・
通俊四男
岩村薩馬1879-1947満州船渠常務・謡曲家谷中霊園乙12-9に眠る
姪・
薩馬長女
英子俳優の宇佐美淳(駒木五郎)に嫁ぐ
姪・
薩馬次女
愛子板谷商船社長の板谷宮吉(三代目・真満)に嫁ぐ
本人・
通俊五男
岩村通世
岩村八重子1893-?内科・小児科医師の三宅猶之丞の長女。八重子の妹の芳子は岩村一木の妻となった同墓
通世長男岩村通正1913-?岡山大学農学部教授・農学博士同墓
通世次男岩村竹俊1921-1943陸軍航空中尉・戦死同墓
妹・
通俊長女
北子1888-?男爵で日本飛行協会性設立者の伊賀氏広に嫁ぐ
弟・
通俊の八男
岩村一木1894-1968男爵・肥料配給公団総裁、長兄の八作の養子谷中霊園乙12-9に眠る
妹・
通俊次女
蝦夷1872-?岩村透に嫁ぐ
叔父・
英俊二男
林有造1842-1921自由民権運動指導者・農商務大臣・逓信大臣高知県宿毛市の東福院
従兄弟・
有造の二男
林譲治1889-1960衆議院議長・厚生大臣・内閣官房長官高知県宿毛市の東福院
叔父・
英俊三男
岩村高俊1845-1906男爵・地方長官・貴族院議員京都東大谷虎石の傍らの武家墓
従兄弟・
高俊の子
岩村 透1870-1917男爵・美術評論、妻は通俊末女の蝦夷神奈川県三浦市の本瑞寺


*甥の安藤馨(16-1-3)は日本のコンピュータのパイオニア。戦時中にスパイ容疑で逮捕された安藤馨を、当時、司法大臣を務めていた岩村が救っている。


【岩村家墓所】
 墓所には三基が並んで建つ。正面右から「岩村通世家之墓」、真ん中に通世の息子で戦死した「岩村竹俊之墓」、左に「素竹岩村通世墓」が建つ。「岩村通世家之墓」の裏面は岩村通世と妻の八重の略歴が刻み、「昭和四十年四月 長子 岩村通正 建之」と刻む。右面は墓誌となっており、岩村通正から始まり「正四位 勲四等 農学博士」も刻む。次に通正の妻の水重、尚子の三名が刻む。「素竹岩村通世墓」の裏面も岩村通世の略歴が刻み、「岩村通世家之墓」とほぼ同じ内容が刻む。「岩村竹俊之墓」の裏面は竹俊の略歴が刻み最後に「昭和十八年九月十三日 司法大臣 岩村通世撰」と刻む。
 岩村通世の妻は田原藩・小児科医の三宅猶之丞の長女の八重(1893.10-?)で、女子学習院を卒業。通世との間に4男2女を儲ける。子息全員が同墓に眠る(嫁いだ者は分骨と推察)。墓所には左右に墓誌が建ち、左側の墓誌は四男の岩村保通(1927-2000.10.17)のみの刻み。右側の墓誌は次女の佐々木澄子(1919-2006.9.9:男爵の岩村一木の養女から丸茶の佐々木時造の長男の佐々木榮一郎に嫁いだ。なお岩村がGHQからA級戦犯で出頭命令が出た際に佐々木榮一郎が付き添い同行している:1-1-4)から刻みが始まり、次に長女加藤猶子(1917-2012.2.19:男爵の岩村一木の養女から加藤一生に嫁ぐ)。次は三男の岩村敏通(1923.12-2009.1.16)。敏通の妻の典子(H24.3.12歿)が刻む。補足情報として岩村一木は岩村通俊の八男であり通世の弟、一木の妻の芳子は通世の妻の八重の妹。
 岩村通世には四人の子息があり、戦時中には四人とも軍務に従っている。長男の岩村通正は岡山大学農学部教授を務めた農学博士であり、マツタケの発生するアカマツ林に対するマツタケ増殖施業やマツタケの害虫について、アカマツ・クロマツ種間雑種における形態学上の特性などを研究した。次男の竹俊は、1943.6.6(S18)陸軍航空中尉として北支に赴任。米軍戦闘機との交戦により被弾し自爆する決意により戦死を遂げている。没後陸軍大尉に進級。これは現職司法大臣の子息の戦死として、新聞各紙にも取り上げられた。通世にとって息子の戦死には大層心を痛め、戦後、竹俊に関する資料や情報の調査・収集を行った上、その成果を小冊子の形にまとめて遺族の間に配布した。通世は遺言で、自身の遺骨を竹俊の眠る多磨霊園に埋葬するよう希望したとされる。

墓所 墓所
岩村竹俊之墓 岩村通世家之墓


*上記本文中の事件の詳細は下記をクリック
帝人事件藤沼庄平
天皇機関説事件美濃部達吉
中野正剛事件中野正剛
ゾルゲ事件ゾルゲ,リヒアルト



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