京都府宇治町出身。11歳で京都の絹問屋に丁稚奉公した。その後、お茶問屋の丸茶阪部商店に入社しそこで頭角を現した。
1905 日露戦争に勝利した日本が南樺太を得たため、26歳の時に単身南樺太に渡り、同.11.3(M38)樺太大泊(サハリン島コルサコフ市)において「合名会社 丸茶 佐々木商店」を独立創業した。木の枝を折って縄で縛りバラック小屋を作り、屋号は丸茶阪部商店の恩義を忘れぬため「丸茶」を入れ、「丸茶 佐々木商店」の看板を掲げた。社是は「誠」即ち「堂々と正道を踏んで畏れない」と云う主義でスタートした。極寒の地の樺太には全ての物資が不足しており、金属、機械の販売を始める。また当時の樺太には鉄道がなかったため、米国から鉄道用機関車や線路一式を購入し、米国人エンジニアを雇い線路を敷くなど連日繁忙を極めた。
'08 三島由紀夫(10-1-13-32)の祖父の平岡定太郎(10-1-13-32)が樺太庁長官に着任し、樺太の人跡未踏の密林と地面のいたる所に露出している石炭に注目。三井合名の団琢磨を口説いて三井物産木材部長で後に製紙王と呼ばれる藤原銀次郎に産業振興の調査を依頼した。樺太のエゾマツとトドマツは製紙用パルプの原料として活用できるとの報告がなされた。'11 藤原銀次郎は三井から王子製紙に移り、'14(T3)第1次世界大戦の洋紙需要の急伸長に呼応。この流れで、同年、王子製紙は樺太に工場を設置し、丸茶は連携し紙パルプ業界の先駆的な役割を担った。最終的に9工場を設置した。
丸茶は樺太の開拓に必要な機器や石油、石炭、鉄鋼、金属、火薬、セメント、鉄道、自動車販売、そして紙パルプなど商売を幅広く手がけ繁栄した。'31.12(S6)株式会社に改組し、株式会社丸茶佐々木商店に改名し社長に就任。同じくして本社を東京日本橋の呉服橋におく。
しかし、太平洋戦争の敗戦とソ連の樺太侵攻で丸茶を含め財産すべてを失う。樺太から引き揚げてくる2000名近くの従業員の退職金も用意ができず、そのため北海道の牧場を開墾し、漁業も始めたがうまくいかなかった。さらに、いくつかの事業も起こしたが、詐欺にも遭う。
加えて、'49(S24)紙パルプ業界はGHQの財閥解体の指令を受け、王子製紙は苫小牧製紙、十條製紙、本州製紙の三社に分割された。'50 王子系3社を中心にボイラ−、真空蒸発缶、回収ボイラ−等を次から次と納入。長男の佐々木榮一郎(同墓)と共に、ボイラーの設計・設置業で会社の再建を目指した。そんな折、朝鮮戦争が勃発して特需景気が日本復興に好影響をもたらした。丸茶は紙パルプ用機器、ボイラー・発電用機器、空調用設備機器などが好調で勢いもあり、'55 日東企業株式会社を設立。'56 本社を京橋二丁目丸茶ビルに移転。
'59.2 社長を長男の榮一郎に譲り、会長に退いた。同時に社名も丸茶株式会社に改名した。'72 永年の仕入れ先であった汽車製造株式会社が川崎重工業株式会社に吸収合併される。同年、時を同じくして、逝去。享年94歳。
遺言により資産の一部を紙パルプ技術協会に寄付する事を申し出た。技術協会としては業者からの寄付は受け付けない方針であったが、佐々木時造の戦前戦後の永年による紙パルプ業界に対する貢献度を高く評価し、特例として寄付を受付け、寄付金を基金として佐々木賞を設け毎年賞を贈呈する事となった。昭和47年度を第1回として技術開発・研究開発により顕著な成果を収め、紙パルプ業界に貢献した個人または企業を表彰している。
*墓石は和型「佐々木家之墓」、裏面「昭和四年九月 初代 佐々木時造 建之」。墓所左側に墓誌が前後に二基並ぶ。墓石に近い墓誌は佐々木時造の父の佐々木叢居(M31.4.7歿・行年69歳)、母のフサ子(M45.7.13歿・行年77歳)から刻みが始まる。佐々木時造は戒名は篤信院殿義譽積徳時功大居士。妻は まつ(S56.1.19歿・行年93歳)。手前の墓誌は榮一郎の妻の澄子(H18.9.9歿・行年87才:篤秀院照誉光月明澄大姉)から刻みが始まる。佐々木榮一郎の戒名は篤誠院殿榮誉雄心浩慶大居士。行年百四才と刻む。榮一郎の長男は佐々木雄一(R2.11.7歿・行年79才:篤明院誠誉堅正泰雄居士)。榮一郎の妻の澄子の父は近衛内閣や東條内閣で司法大臣を務めた岩村通世(9-1-19)。
*子の佐々木正五(1916.6.18-2014.11.20)は海軍軍医中尉、微生物学者、慶應大学名誉教授、東海大学名誉教授、医学博士。伊号第四潜水艦軍医長として真珠湾攻撃に参加。「東京裁判を免れた。生き延びた恩に報いたい」と、戦後は細菌学研究や感染症研究に没頭。無菌マウスを日本で初めて輸入した人物。1973 監修した映画「腸内菌叢と宿主」が各映画賞で金賞を獲得。分子生物学者の勝木元也は娘婿(長女の夫)。