樺太出身。紙パルプ業界の先駆者・丸茶創業者の佐々木時造(同墓)の長男。佐々木栄一郎とも表記する。弟に微生物学者の佐々木正五。12歳まで樺太の地で育った。1924(T13)上京し慶應普通部に入学。岡本太郎(16-1-17-3)や藤山一郎(本名は増永丈夫)と同級生だった。
'34(S9)慶應義塾大学卒業。秋に現役兵として近衛師団第1連隊に入営。同.12.1 経理部の幹部候補生学校に入校し、半年後に修了し見習士官となり、召集解除で予備役編入となった。'37 日中戦争のため再召集(教育召集)がかかり、陸軍主計少尉に任官。再着任する前に岩村通世(9-1-19)の二女の澄子(男爵の岩村一木の養女)と結婚。欠員補充のために中国山西省に赴任を命ぜられ、陸軍主計将校として北支戦線へ赴く。主に軍隊の補給や給与、寝床をつくる、物資の調達などを担当した。約1年半属したが水が合わず体調不良が続いたため内地に戻され、'40 召集解除となった。
'41.9 太平洋戦争開戦直前の秋、三度目の召集をされ、陸軍第一師団の司令部勤務となる。既にこの時期はアメリカと戦争になりそうな状況を肌で感じており、明らかにアメリカと戦争となれば勝てない戦であるとも感じたため、近衛文麿内閣で司法大臣を務めていた義父の岩村通世に直接意見を聞いている。「アメリカと戦争をしたら負けると思いますが、お父さんはどう思いますか?」と問うと、「よくわからん」と返され、「何とかして戦争を辞めさせることはできないのですか?」と訴えると、「それはないな」と返答されたという。「どうすればいいのですか?」と言うと、「軍の命令に従うしかない」と言われ、「みすみすわかっていることをやるのはバカらしいじゃないですか」と言うと、「そうは言っても、国策として決まったことには順応するのが、ましてや軍人なら当然だ」と諭された。その後も何とか戦争回避を訴えるも、「もう遅い」と退けられたというやり取りの逸話がある。義父の岩村は東條英機内閣が発足し開戦した時の司法大臣でもある。
同.12.8 複雑な心境の中で太平洋戦争勃発。陸軍第一師団司令部付として開戦を迎えた。'43 東部軍管区司令部副官に就任。捕虜に日系二世がいたため仲良くなり、米国ラジオの翻訳を任じ先方の情報を聞くと、ほぼ全てアメリカ軍の戦勝の話であった。都合よく放送しているのだろうと思ったが、家業である丸茶の樺太支店長を務め流通に長けている親戚の林から他国の情報を聞き、日本の戦局は良くないことを知る。'44秋 日本の連勝報道をしているメディアとは真逆にいよいよ日本の敗戦の色が濃いと痛感し、樺太で事業を行っている父たちに樺太から早期撤退をし内地に戻るように伝えた。ところが誰にも信用されなかったという。
本土防衛・首都防衛の準備を任され、相模湾や九十九里浜に塹壕をつくる指揮を行う。'45.3.10 東京大空襲後、現状視察を命ぜられている。同.8.14 一部将校がポツダム宣言受諾に反対して徹底抗戦を叫んでクーデターを起こそうとした「宮城事件」に対して、田中静壱陸軍大将の副官として軍の中枢にいた東部軍管区司令部と鎮圧にあたった。終戦後、戦前戦中に司法大臣であった義父の岩村通世はGHQからA級戦犯第一次戦犯指名を受けた際に同行した。
敗戦とソ連の樺太侵攻で家業の丸茶を含め財産すべてを失う。樺太から引き揚げてくる2000名近くの従業員の退職金も用意ができず、そのため北海道の牧場を開墾し、漁業も始めたがうまくいかなかった。さらに、父と共に幾つかの事業を起こしたが、詐欺に遭い苦難の末、ボイラーの設計・設置業で会社を再建し、'50〜'53 朝鮮戦争の特需で再起した。'55 株式会社丸茶佐々木商店を日東企業株式会社と社名を変えて設立。'56 本社を京橋二丁目丸茶ビルに移転。父の右腕として活躍。
東京ローンテニスクラブに所属している縁もあり、明仁親王(当時の皇太子:平成天皇:現在の上皇)と美智子 妃(現在の上皇后美智子)とは毎年お会いし、軽井沢や東京で、妻と一緒にテニスのお相手をするなど宮家との交流があった。
'59.2 父が会長に退き、社長に就任。これを機に社名を丸茶株式会社に改名した。紙パルプ用機器、ボイラー・発電用機器、空調用設備機器以外にも、コンピュータ、また不動産などを取扱い事業を拡大し、丸茶はさまざまな産業機器に対応できる商社に発展していった。
'90(H2)社長を二男の佐々木浩二が継ぎ、代表取締役社主に就任。2004.9『父と子、そして百歳。 : 丸茶・佐々木時造、栄一郎の百年史』を著す。同.11(H16)丸茶は創業100周年を迎えた。息子で社長を務めていた佐々木浩二は会長になり、社長に福島義和が就任した(2019 浩二は会長 兼 社長に就任)。
2011(H23)100歳になる。100歳になっても丸茶本社に毎日出社した。長寿の秘訣は半分は遺伝子と言いつつも、持病の糖尿病を克服するため、1日きっちり1400kcalの食事療法をしっかり守り健康的な生活を送ったことと回想している。また毎日、自分で血液を採取し、血糖値もチェックした。加えて健康を維持するため、週に1回のゴルフも欠かさなかった。座右の銘は「正々堂々」。享年104歳。
*墓石は和型「佐々木家之墓」、裏面「昭和四年九月 初代 佐々木時造 建之」。墓所左側に墓誌が前後に二基並ぶ。墓石に近い墓誌は佐々木時造の父の佐々木叢居(M31.4.7歿・行年69歳)、母のフサ子(M45.7.13歿・行年77歳)から刻みが始まる。佐々木時造は戒名は篤信院殿義譽積徳時功大居士。妻は まつ(S56.1.19歿・行年93歳)。手前の墓誌は榮一郎の妻の澄子(H18.9.9歿・行年87才:篤秀院照誉光月明澄大姉)から刻みが始まる。佐々木榮一郎の戒名は篤誠院殿榮誉雄心浩慶大居士。行年百四才と刻む。榮一郎の長男は佐々木雄一(R2.11.7歿・行年79才:篤明院誠誉堅正泰雄居士)。
*詳細は不明であるが、佐々木榮一郎と澄子の共著で『生きていてよかった−植物人間からの生還』 (1976)を刊行している。「植物状態」という言葉に大きな抵抗感があるとし、昨今は「遷延性意識障害」と呼ぶよう求めているが、この題材を扱った草創期の書物である。