東京小石川出身。父は英文学者の安藤勝一郎、母はバイオリニストとして女性初の文化功労者に選出された安藤幸。兄の高木卓(本名は安藤煕)は小説家・ドイツ文学者・音楽評論家として活動、芥川賞を辞退したことでも著名。
1932(S7)渡米、'36米国インディアナ州立大学ビジネススクールに留学し、計量経済学を学ぶ。留学中に参加した学会で、カウルス経済研究所が保有するパンチカードシステム「IBM405」が展示されているのを見て興味を持つ。
'37帰国し、日本IBMの前身の日本ワットソン統計会計機械(株)に入社。営業部門の責任者となり、PCS(パンチカードシステム)のセールスを担当した。
'41.12スパイ容疑で逮捕されたが、叔父で司法大臣を務めていた岩村通世(9-1-19)の助力で釈放され、神戸に赴いて北川宗助らと統計研究所を設立した。
'45.9終戦と同時に、アメリカ留学中の人脈などにより、占領軍総司令部(GHQ)の顧問として、PCSを活用しつつ戦略爆撃調査や社会統計、経済統計、社会分析のシミュレーションなどを手がけた。
安藤の活躍により、多くの日本人がGHQや在日アメリカ軍基地の情報処理部門に採用された。その後、日本IBMの発足に伴い復帰し、日本における汎用計算機ビジネスを確立した。
'60日本IBM常務取締役、'63アジアIBM特別補佐に就任。60年代は東京オリンピックのオンライン・システム開発チームを統括しプログラマーの養成などに努め、'64東京オリンピックの時には、IBM1410計算機とオンラインシステムを駆使した集計システムの開発と運用に注力した。これは計算機を使ってオリンピックの記録を集計した最初の試みであった。
'66日本IBMを辞し、富士通の取締役として迎えられて移籍。富士通は国産の計算機メーカには製造の技術力はあるが、マーケティングに弱味があるためその部門の強化が必要という認識と、一部でIBM流に対する社内の反発もあったことから、電子計算機の営業部門でなく、子会社として富士通ファコムを設立し、社長に就任。ソフトウェアの開発、計算処理サービスの拡大に努め、情報処理サービス分野に軸足を移した。
'67富士通ファコムの再編に伴い教育部門が、一般外部を対象とする電子計算機要員の育成を目的として富士通電子計算機専門学校を開設、校長に任命された。電算機メーカが直接指導する電子計算機学校は我が国では最初であった。
'70富士通常務取締役。'74日本のコンピュータ産業育成、情報化への貢献が認められ藍綬褒章を授与。'83日本人で初めての情報処理国際連合(IFIP)会長に就任した(〜'86)。'86〜'91情報処理学会の国際委員会委員長を歴任。この間、'87情報処理学会の功績賞受賞。'89(H1)情報処理学会の名誉会員となる。
富士通においてマーケティング、セールス、システムズエンジニアリング、カスタマエンジニアリング、社内教育制度の改革に着手に努め、'92富士通を退職した。享年83歳。
<IT人物辞典> <コンピュータ博物館 日本のコンピュータ パイオニア>
*墓石前面は「河本家墓」。右面が墓誌となっている。墓誌には墓石建之者(S16.12建之)でもある河本清(1891.10.27-1987.4.11)、母のスガ、妻の久代、若くして亡くなった長男の明、二男の浩、三男の雅が眠る。
墓所左側に十字が刻む墓誌が建ち、安藤馨にはパウロ、妻の安藤文子(1921.2.9-1996.7.9)にはマリア ユーゲニアと刻む。文子の実家が河本家であり、男子が早死されたため、娘の文子、嫁ぎ先の安藤家が墓所を継承したと推察する。
*安藤馨にとっての母方の安藤幸(旧姓は幸田:父は旧幕臣の幸田成延の8人兄弟の7番目・2人は早死)の姉兄(すなわち、伯母・伯父)は日本の近代文化の礎を築いた早々たるメンバーである。
姉の幸田延は日本の洋楽黎明期を作った第一人者であり作曲家、ピアニスト。長男の幸田成常はカネボウ創設者であり実業家。次男の成忠は郡司家の養子(郡司成忠)で千島・樺太を発見した探検家。四男の成行は筆名を幸田露伴とした作家。五男の幸田成友は歴史学者。
*安藤馨の母方の幸田家の墓所は東京都大田区池上にある池上本門寺にあり、幸田延、幸田成常、郡司成忠、幸田露伴、幸田成友、幸田露伴の次女で小説家の幸田文らが同じ墓に眠る。
第390回 日本のコンピュータのパイオニア IBM 富士通 オリンピック初オンラインシステム導入 安藤馨 お墓ツアー
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