薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(鹿児島県鹿児島市上荒田町)出身。川村家は代々薩摩藩の下級武士の家柄。大砲鋳造方を務めた川村與十郎方臣、由嘉子(共に同墓)の長男として生まれる。通称は与十郎。妻の春子は薩摩藩士の椎原国幹(与右衛門)の長女であり、椎原国幹の姉は西郷隆盛の母の政佐であったことから、西郷隆盛とは義理の従兄弟関係であり実弟のように可愛がられたという。
【戊辰戦争での活躍】
1855(安政2)江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所の一期生に薩摩藩から選抜され入所。1867(慶応3.11)藩主島津忠義が精兵1000人を率いて上京する際、小銃四番隊長として出征。鳥羽伏見の戦いでは四番隊は伏見奉行所裏通に出動。7時間に及ぶ戦闘に勝利をおさめ奉行所を占領した。残敵を追って鳥羽方面へ進出、長州・土佐兵を応援して勝ち進み、更に八幡、橋本を攻略して官軍の勝利を決定的にした。
東征には東山道軍の先鋒となり、1868(慶応4.2.13)諸軍に先駆けて京都を出発。中山道碓氷峠を経て関東に進入し、同.3.9 払暁、下野国梁田(足利市東郊)で幕府脱走兵1000人を僅か200余人で撃破した。江戸到着後、4月下旬、宇都宮、白河方面に転戦し、会津戦争での十六番奪取の偉功を得るまでの三か月半余りを、伊地知参謀の指揮下、僅か1000人の寡兵で奥羽連盟軍6000人を相手に戦い抜いた。
討幕戦に勝利をおさめて薩摩に凱旋すると、藩の制度に多くの不平不満を抱き公然と批判し始めた。隊員たちの意向を集約して、藩庁に改革を建議するため、藩政を握っている門閥派と改革派との対立の中心人物として門閥排斥の先頭に立った。
藩主の島津忠義が断を下して門閥派を辞めさせ、西郷隆盛を参政に任じ、改革を次々と実行したため、藩政も次第に改められていった。そのひとつが兵制の改革で、1869(M2)常備軍が新たに編成され、二番隊長に任命された。同年、島津忠義が上京する際に随行し、東京警衛の任務に就いた。
【日本海軍の基礎つくりから西南戦争】
1869(M2.11.23)参与の大久保利通の推挙により、兵部省の大丞(たいじょう:海軍掛)に任命された。1870(M3.10.27)正式に海軍兵学寮が開校するに当り、兵学頭(校長)に就任。この時の幼年生徒15名の中に後に海軍の父と称される山本権兵衛がいた。
1871(M4.7.15)兵部少輔に昇進。1872(M5.2.27 陸軍と海軍に分離され、海軍少輔(少将)。勝海舟は国務に専念し、実務は川村が海軍の実権者として活動した。同.11 オーストリア万博出席のため欧米出張。1873 征韓論争(明治六年政変)で西郷隆盛が下野すると、多くの元薩摩藩士が従い、出張中の川村にも呼び戻しの連絡があったが視察旅行を続け帰朝したため、征韓論争に巻き込まれずに済み、軍に所属し続けた。1874.4.4 台湾征討に際し、海軍関係蕃地事務局出仕を命ぜられて西郷従道(10-1-1-1)を補佐した。同.8.5 海軍大輔(中将)に累進。
西南戦争にあたっては、私学校党の火薬庫襲撃直後、鹿児島に入り、県令の大山綱良と会談し制止に努めたが、私学校党幹部による妨害もあり不首尾に終わり帰京する。これをきっかけに、1877.2.19 開戦。西南役征討参軍(総司令官)として海軍を率いた。使用した海軍の艦船は19隻、合計1万4000トンという貧弱さであったが、保有隻数僅か3隻の薩軍海上勢力を初期に撃滅した後は制海権を掌握して、九州全海域を完全に封鎖し鎮定にあたった。同.10.10 凱旋後、同.11.20 議定官を務めた。
【組織に不向きであった海軍卿】
1878.5.24 西南戦争後、参議 兼 海軍卿(かいぐんきょう:1872新設された海軍省長官の名称で、1885海軍大臣と改称された)に就任。陸軍と海軍の間で海軍参謀本部論という厄介な問題が生じた。西南戦争で暴露した参謀制度の不備の反省より、陸軍省から参謀本部が独立した。これに対抗して、川村が海軍参謀本部の設置を提議したが、陸軍側がこれを不要として対立した。1880.2.28 問題紛糾により参議専任となり、海軍卿に榎本武楊が起用された。だが、放縦で傍若無人な振舞は英国紳士風に教育された海軍士官から猛反発を喰い、1881.4.7 再び川村が海軍卿に返り咲いた。戻った川村は再び建艦増強化に取組み、軍備拡大策に狂奔した。
しかし、川村の物事をはっきりと言いすぎる(カンシャクもち)性格が災いし、また時代は内閣制度への移行と動いており、部内の若手仕官や上級将校らの支持を得られなかった。そのため海軍の対外軍備が遅れ、戦力は比較的に劣弱となり、政界や軍部から批判されるに至り、内閣が成立するタイミングでその座を追われ、1885.12 免官となった。
この間、1884.7.7 伯爵を襲爵。免官後、1885.12.22 宮内顧問官に53歳の若さで就任し、1888.4.30 枢密顧問官に転じ、予備役に編入され、海軍から決別することとなる。1893.11.11 議定官を兼ねた。
明治初期の海軍は川村が10年かけてコツコツ日本海軍の礎を作り上げたもので、これがために薩摩海軍の名すらあった。海軍卿になり益々一切の采配を振るう立場になったが、「川村という人は一騎打ちの名将ではあったが、組織という方面では全然不向きの人であった」と、樺山資紀の息子で、川村の長女の常子を妻とした樺山愛輔が回想している。
【昭和天皇の養育掛】
1901.4.29(M34)昭和天皇(御名は裕仁=ひろひと・称号は迪宮=みちのみや)は東京青山の東京御所で誕生した。70日目の7月7日から川村邸で育てられた。昭和天皇の弟の秩父宮(御名は雍仁・称号は淳宮)も生後四か月から川村邸で養育された。川村邸は旧麻布区狸穴(まみあな)四番地で、現在の港区麻布台のロシア大使館の裏手あたりにあった約1万平方メートルの宏壮な屋敷だった。宮中や公家の間では、他家で育てられた方が身心ともにたくましく育つといわれており、里子に出す風習があった。両親の大正天皇も貞明皇后とも養親に育てられている。
老提督が皇孫の養育を命じられたのは、親王誕生前の4月5日であった。同郷の松方正義が推薦したが当初は固辞した。すると大正天皇から「お前の孫だと思って育ててくれればよい。両陛下(明治天皇と皇后)も頼んでいるのだ」と言ったという。川村邸には明治天皇も晩餐を挟み遊びにきたことがある間柄であり、昭和天皇の養育掛に抜擢された。川村は「聖恩に浴すること多年、せめては老後の一身を皇孫の御教育に委ね、これを最後の御奉公と——鞠躬尽瘁(きくきゅうじんすい:身を捧げて使命達成に尽くすこと)の至誠を捧げまつらむ」と決め、妻の春子と共に養育を引き受けた。
昭和天皇の幼少時に仕えた鈴木貫太郎夫人の孝の回想では、川村家では外国に対しても恥じないようにと、迪宮(昭和天皇)と淳宮(秩父宮)の洋服はフランス駐在の大使に命じて、レースの付いた女児のようなワンピースなどを頼み着せていたという。また夏は箱根宮下の富士屋別館、冬は沼津の川村別邸(後に宮内省が買い上げ、沼津御用邸西付属邸とした)へと寒暑を避けて健康に気遣った。
1904.8.12(M37)川村純義逝去。正3位 勲1等。享年67歳。贈従1位。明治天皇の特旨で海軍大将に特進した。日本海軍で戦死ではなく死後昇進したのは川村が唯一の例である。
川村が没した、同.11.9 迪宮(昭和天皇)と淳宮(秩父宮)は養家を去り、温暖な沼津で避寒、翌年の4月から東京御所に戻った。戦後、昭和天皇は川村の思い出を記者会見で尋ねられ「赤ん坊のときで、何分小さくそれに短い間だったので覚えていません」と答えた。
<コンサイス日本人名事典> <帝国海軍提督総覧「薩派勢力を盤石にした軍閥の祖 川村純義」河野弘善> <華族歴史大事典「天皇三代の側近」高橋紘> <人事興信録など>
第200回 維新の名将 組織作りは苦手 昭和天皇養育掛 川村純義 お墓ツアー
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