薩摩国出身。薩摩藩士の椎原国幹(與右衛門)の長女として生まれる。椎原国幹の姉は西郷隆盛の母の政佐であったことから、西郷隆盛とはいとこ。
川村純義(同墓)と結婚し、4男2女を儲ける。長男は家督を継いだ川村銕太郞(=鉄太郎:M2.5.24-S20.4.23:同墓)。二男の純藏(M5.6.26-S11.11.1)は男爵の大寺蔵之助の養子となり大寺純藏として西園寺公望(8-1-1-16)の内閣総理大臣秘書官や男爵議員を務めた。長女の常子(M8.2-)は伯爵の樺山資紀の長男の樺山愛輔に嫁ぎ、その二女の正子が白洲次郎の妻。二女のハナ(M15.4-)は伯爵の柳原義光に嫁いだ。三男の純三郎(M17.7.29歿:同墓)は早死。四男の辰之助(M14.6-T10.2.3:同墓)も若くして没した。
1901.4.29(M34)昭和天皇(御名は裕仁=ひろひと・称号は迪宮=みちのみや)は東京青山の東京御所で誕生した。70日目の7月7日から川村邸で育てられた。昭和天皇の弟の秩父宮(御名は雍仁・称号は淳宮)も生後四か月から川村邸で養育された。川村邸は旧麻布区狸穴(まみあな)四番地で、現在の港区麻布台のロシア大使館の裏手あたりにあった約1万平方メートルの宏壮な屋敷だった。宮中や公家の間では、他家で育てられた方が身心ともにたくましく育つといわれており、里子に出す風習があった。両親の大正天皇も貞明皇后とも養親に育てられている。
松方正義の推薦や大正天皇からのお願い、更に明治天皇は以前川村邸宅に遊びに来るなど夫の純義と懇意であったこともあり引き受けることとなり、昭和天皇の養育主任に任ぜられた。
純義と春子は昭和天皇の養育に関して、「物を恐れず、人を尊ぶの性情を御幼時より啓発し奉り、又難事に耐ふる習慣を養成し奉るの覚悟を為し、天稟(てんびん)の徳器に気儘(きまき)・我儘の暇を一点にても留めまつるが如きこと、決してあるべからず」という聖上御盛徳録を養育の基本とした。
大正天皇の学友で昭和天皇の侍従次長を務めた甘露寺受長によると、迪宮(昭和天皇)があるとき、好きでないものがお膳に付けられているのを見て、嫌だと箸を投げだした。「嫌なら食べなくてもよろしい」と純義はお膳を引くと、迪宮は「食べる」と言って素直に箸を付けたという逸話がある。純義のみだけでなく、春子も厳しいしつけが必要であると考え、難事に耐える習慣をつける、わがままを許さないなどと、五項目の方針に従って養育した。
一方で、肺炎になった時、主治医が湿度を十分とるようにと言われた際には、据風呂を部屋に持ち込んで湯気を立てたりした。夏は箱根宮下の富士屋別館、冬は沼津の川村別邸(後に宮内省が買い上げ、沼津御用邸西付属邸とした)へと寒暑を避け、健康面を気遣った。
昭和天皇の幼少時に仕えた鈴木貫太郎夫人の孝の回想では、川村家では外国に対しても恥じないようにと、迪宮(昭和天皇)と淳宮(秩父宮)の洋服はフランス駐在の大使に命じて、レースの付いた女児のようなワンピースなどを頼み着せていたという。
1904.8.12(M37)夫の純義が逝去したことで、同.11.9 迪宮(昭和天皇)と淳宮(秩父宮)は養家を去り、温暖な沼津で避寒、翌年の4月から東京御所に戻った。戦後、昭和天皇は川村の思い出を記者会見で尋ねられ「赤ん坊のときで、何分小さくそれに短い間だったので覚えていません」と答えた。