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かわみなみ みつじ

汾陽光二

かわみなみ みつじ

1876.5.27(明治9)〜 1938.10.31(昭和13)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 16区 1種 19側 11番

 鹿児島県出身。薩摩藩士の汾陽光輝の二男。1894.12(M27)士官候補生となり、1896.11.26陸軍士官学校卒業(8期)。 同期に林銑十郎(大将・首相:16-1-3-5)、渡辺錠太郎(大将:12-1-10-15)、新井亀太郎(中将:13-1-4)、神尾直次(少将:22-1-30)、齋藤徳匡(少将:24-1-34)、中島銑之助(少将:14-1-24-7)らがいた。1897.6.28歩兵少尉任官。
 1912.9.28(T1)名古屋陸軍地方幼年学校長就任。'17.8.6桑名連隊区司令官を経て、'19.7.25歩兵大佐に昇進し、'20.8.10歩兵第36連隊長となる。 '23.8.6少将に累進し、第11師団司令部附。'24.12.15歩兵第27旅団長に任ぜられた。'28.8.10(S3)中将に進み、紀伊半島と淡路島の間の紀淡海峡周辺に設置された大阪湾防衛の要衝、由良要塞司令官を務めた。 '29.8.1(S4)待命、同.8.31予備となった。高潔な性格で、人徳があり部下からも慕われていた軍人であったと言われている。正4位 勲2等 功5級。享年62歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>


墓所 墓所

*墓石は和型「陸軍中将汾陽光二墓」、裏面「昭和十四年二月六日 汾陽光武 建之」。左に墓誌が建ち、右に石が鎮座する。墓誌には「陸軍中将 正四位 勲二等 功五級 汾陽光二」と没年月日、享年が刻む。享年は六十三歳となっている。妻は虎子(S23.1.16歿)。子だくさんであり、その子供たちのほぼ全員が同墓に眠る。早死した良子、備子、光定、光兼、光昭、光和は名前のみの刻み、続いて、三男の光弼(S35.12歿)、二男の光文(S49.1歿)、長男の光武(S56.11歿)、八男の光興(H1.9歿)、五男の光秀(H18.7歿)の順で刻まれている。 二男の光文は陸軍中佐から戦後、航空自衛隊の空将として活躍。五男の光秀は日本鉱業協会常務理事などを務めた。


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