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かわみなみ みつふみ

汾陽光文

かわみなみ みつふみ

?〜 1974.1(昭和49)

昭和期の陸軍軍人(中佐)、航空自衛隊(空将)

埋葬場所: 16区 1種 19側 11番

 陸軍中将の汾陽光二(同墓)の二男。1930.7.19(S5)陸軍士官学校卒業(42期)。同.10.25少尉任官。1941.7.31陸軍大学校を優等で卒業(54期)。 同期に戦後、陸上自衛隊東部方面総監在職時の三島事件において三島由紀夫(10-1-13-32)らの人質となり退官に追い込まれた益田兼利らがいる。陸軍中佐で終戦。
 戦後は自衛隊の前身である警察予備隊に入隊。第一幕僚監部第2部勤務。1951春、警察予備隊はアメリカ陸軍で使用していた連絡・偵察・弾着観測用であるL機の導入を決め、浜松南基地で航空学校の創設準備と飛行訓練の準備が始まった。 第1回L操縦学生は旧陸・海軍パイロットで構成され、次期学生に対する教官要員でもあった。これにより、'52.10.15警察予備隊は保安隊に改組され、浜松には航空学校が設立された。 汾陽光文は保安隊航空学校(後の陸上自衛隊航空学校)の初代校長に任命された(〜'54.6.30)。経験者技量回復訓練はアメリカ空軍主導で実施されたが、学校設立後は学校主管、アメリカ軍支援の態勢になる。
 この間、'53対日軍事顧問団の設置を受けて、アメリカによる軍事指導と軍事援助は本格的に始動。朝鮮特需に伴い武器の製造が認められ、各管区に連絡機部隊が編成され、'54配備は概成。 同年秋頃に保安庁保安局内に制度調査委員会別室が設けられ、対日軍事顧問団内にもこれに対応して航空班が設立される。防衛力整備計画第7次案にて後の航空自衛隊の編成装備の骨格が形成され、新組織創設を含めた昭和29年度予算の要求作業が始まる。
 '54.2航空準備室が発足し、同.7.1航空自衛隊が発足。これに伴い、汾陽光文は航空自衛官に転官し、同.7.6浜松基地にて航空自衛隊操縦学校が編成され学校長に就任した。 その後、航空幕僚監部人事教育部長を歴任。'59.8.1〜'60.7.31飛行教育集団司令、'60.8.1〜'62.7.31 第4代 統合幕僚会議事務局長に就任し、'61.8.1〜'62.7.31 初代 統合幕僚学校長を兼務した。 '62.8.1航空幕僚監部付を経て、'62.10.1〜'64.2.3術科教育本部が浜松南基地にて設立され初代本部長に就任。航空幕僚監部付になり退官。空将。


墓所

*墓石は和型「陸軍中将汾陽光二墓」。左に墓誌が建つ。墓誌には汾陽光二の子息の刻みがあり、「二男 光文 昭和四十九年一月没」と刻む。


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