東京出身。1896陸軍士官学校卒業(8期)。同期に林銑十郎(大将・首相:16-1-3-5)、渡邊錠太郎(大将:12-1-10-15)、新井亀太郎(中将:13-1-4)、汾陽光二(中将:16-1-19-11)、神尾直次(少将:22-1-30)、齋藤徳匡(少将:24-1-34)らがいた。歩兵少尉に任官。
1917.8.6(T6)大佐に昇格し、名古屋俘虜収容所長となった(〜'20.4.1)。
名古屋収容所は所長就任二年前に名古屋市の北部陸軍工兵作業所に新築され、多い時は500名を超え、ピアノ、オルガンの製造もおこなわれ、日本の楽器工場へ技術指導に出たりもした。
耕作されていない未使用の土地で野菜栽培、鳴禽類、食用家禽および兎の飼育に使用させる許可を出し、収容所外の空地までにも野菜栽培に利用できるようになった。
この野菜畑の拡大を「小北海道」と名付けられるほど俘虜のモチベーションとなった。このように俘虜を厚遇していたとされる。
さらに、収容所内で合唱団が誕生し、最初はドイツ民謡やクラシック、現代音楽が演奏されていたが、後に完全な弦楽オーケストラに成長、収容所で製作されたオルガンも加わった。
他にも劇団も誕生している。'18スペイン風邪が収容所内で流行り、7名が死亡したが、俘虜に対しても看護を怠らず対応させた。
これらの収容所内の出来事は、『岐阜県教育』という当時の雑誌に、「名古屋俘虜収容所を観る/記者」、「俘虜を通じて見たる独逸国民性/中島銑之助(陸軍歩兵大佐)」といった記事で執筆されている。
'20.4.1第3師団付、同.5.12歩兵54連隊長、'22.2.8少将に昇任し、歩兵26旅団長となった。'25.5.1待命、同.5.25予備。