本名は今泉義雄。アブドッラシード・イブラーヒームに師事。1953.4.28(S28)日本ムスリム協会を発足し会長に就いた。
設立メンバーは63名。会長に就いた今泉は活発かつ献身的な活動を展開した。例えば、カイロで反日的な映画が数多く上映されていることを知るや、アメリカ大統領アイゼンハワーに抗議文を送った逸話がある。
多神教を重んじる日本の宗教心になかなかなじみがない一神教のイスラーム布教のため、全国を講演をして回った。
'58長野市での講演では、集まった約60人の市民や学生の前で、礼拝の時刻となったため、聴衆の面前でただ一人礼拝を捧げた。
この聴衆を受講していた当時信州大学の学生であった飯森嘉助は、礼拝に驚き、イスラーム信仰の崇高さに感激、入信を決意したという。
飯森は後にアラビア語学者、協会の発展に尽力した人物である。
'60病に倒れ、5月16日夜8時頃、協会の副会長を務めていた斎藤積平が見舞いに訪れた際に、かすかな声で「コーランの第一章ファーティハを唱えてくれ」と頼んだという。
斉藤が今泉の耳元でこれを唱え終わると、満足した様子で別れを告げた。これが最期の言葉となった。翌17日午前2時、今泉の霊魂はアッラーのもとへと召されていった。享年64歳。
その後、協会では現在に至るまで、イスラーム学の研修のためにエジプトのアズハル大学など、アラブ諸国を中心に多くの留学生を派遣し、布教活動を行っている。
【戦前の日本でのイスラム教】
アラビア語で、「イスラーム」は「神への帰依」、「ムスリム」(イスラム教徒)は「帰依する者」を意味する。「平和」を意味する「サラーム」(一般的なあいさつの言葉でもある)などと同根の語である。
1872(M5)後の外務大臣の林薫によって本邦初の預言者伝「馬哈黙伝」が出版。1892(M25)山田寅次郎、有賀文八郎の二人がイスラームに入信。
これが日本人のイスラーム入信の嚆矢とされている。1910(M43)山岡光太郎が日本人初のメッカ巡礼を果たす。
1931(S6)日本初のモスクが名古屋に、1935神戸、1937東京にもモスクが建設される。1933(S8)「イスラム学会」、1936「日本回教文化協会」が創立。
1937(S12)小林哲夫が参謀本部の奨学生日本人として初めて世界最古のイスラーム大学であるエジプトのアズハル大学に留学。1938(S13)「大日本回教協会」が創立。
この大日本回教協会は戦前戦後を通じて最大のイスラーム関連団体であったが、非ムスリムの前内閣総理大臣林銑十郎(16-1-3-5)を初代会長に迎え、九段の軍人会館で開会式を行ったことからも明らかなように、戦前の日本とイスラームの関わりの軍国主義的性格を象徴する団体でもあった。