富山県出身。1927.3.28(S2)海軍兵学校卒業(55期)。同期に首相や海軍大将を務めた岡田啓介(9-1-9-3)の長男の岡田貞外茂(後に大佐:9-1-9-3)らがいた。 少尉候補生となり、'28.10.1少尉、'31.12.1中尉、'34.11.15大尉を経て五月雨艤装員となる。'39.11.15少佐となり五十鈴水雷長、'40.10.15駆逐艦 蓮艦長に着任。
'41.8.20日本海軍が初めて国内で建造した河用砲艦である鳥羽艦長に就任(〜'43.6.20)。同.12.8真珠湾攻撃によって日米開戦が始まったと同時に、上海に停泊していた英砲艦「ペテレル」(ペトレル)と米砲艦「ウェーク」(ウェーキ)を、鳥羽・蓮・出雲で取り囲み降伏勧告を出した。ペテレル艦長は降伏を拒絶したため砲撃を行い撃沈。ウェーク艦長のコロンブス・ダーウィン・スミス少佐は降伏した。第二次世界大戦で唯一降伏したアメリカ海軍の艦船となり、砲艦「ウェーク」を拿捕し、後に「多々良」と命名して日本海軍籍へ編入された。
'43.9.14駆逐艦 白露艦長に就任し、'44.5.1中佐となる。'44.6.15マリアナ沖海戦を目前に輸送船団(タンカー3隻)を護衛していた際、船団中を不用意に旋回運動を行い、油槽船「清洋丸」と衝突。爆雷誘爆により沈没し逝去。従5位。没後、1階級特進し大佐となり、正5位追贈。
【第二次世界大戦で唯一日本軍に拿捕されたアメリカ海軍砲艦「ウェーク」と降伏したスミス艦長のその後】
1941.12.8(S16)真珠湾攻撃によって日米との太平洋戦争が勃発。開戦前に上海には古賀峯一(後に元帥:7-特-1-3)中将率いる支那方面艦隊の旗艦である巡洋艦「出雲」が、英砲艦「ペテレル」(ペトレル)と米砲艦「ウェーク」(ウェーキ)と相対するような形で停泊していた。古賀は松田九郎艦長の砲艦「鳥羽」と駆遂艦「蓮」を呼び寄せ、ペテレリとウェークを包囲する形で停泊させた。
同.10.28米砲艦「ウェーク」の艦長にコロンブス・ダーウィン・スミス(Columbus Darwin Smith)少佐が着任。スミス艦長は長江を航行する船の船長などを務めていた経験の持ち主であった。またこの時期「ウェーク」の乗員は定員55人のところ14名に減らされていた。
勃発前日、スミス艦長のもとに日本の士官から「艦長と乗組員のために七面鳥を渡したいので艦長は翌朝どこにいますか?」と電話があった。この電話はスミス艦長だけではなく、上海のアメリカの将校や役人にも同じ電話があったとされる。この背景は翌朝より開戦することに向けて艦長がどこにいるのかを探るための日本軍側の行動であった。古賀の作戦は戦いをせずに艦船を無傷で拿捕することを狙い、事前にあらゆる工作を以ってペテレルとウェークの情報収集を行っていた。なおこの時には、包囲している日本の艦船はあらかじめ砲の照準を二船に定め、外灘内の公園に海軍陸戦隊の15センチ砲を据えて包囲していた。
開戦と同時に古賀が乗船している「出雲」から「ペテレル」と「ウェーク」に降伏勧告を通達。まず英砲艦「ペテレル」艦長は降伏を拒絶したため出雲、鳥羽、蓮らの砲撃で呆気なく撃沈された。「ウェーク」のスミス艦長が真珠湾攻撃に関する情報を補給士官から知ったのは二時間後であり自宅のアパートで寝ていた(上海の現地時間で12月7日午前4時20分)であった。それまで全く気付かず、急いでウェークに駆け付けるも既に日本軍が支配権を握っている状況に愕然とし、目の前で同盟軍艦であるイギリスの「ペテレル」が抵抗むなしく燃え上がり沈んでいった。「ウェーク」乗船も拒否されたスミス艦長と攻撃に対する備えもしていなかった乗組員14人(うち8人は無線技師)は白旗を掲げて降伏するしかなかった。
開戦午後1時に大本営海軍部より真珠湾攻撃の成功に続いての第二の戦果成功として、『帝国海軍は本八日未明上海に於て英砲艦「ペトレル」を撃沈せり、米砲艦「ウェーキ」は同時刻我に降伏せり』と発表した。朝日新聞は「(降伏)勧告文を見ただけでスミス艦長はあへなく降伏した」と伝えた。
「ウェーク」は第二次世界大戦中に拿捕された唯一のアメリカ海軍船となった。無傷で拿捕することに成功した「ウェーク」は、同.12.15日本海軍軍籍へ編入され「多多良(=多々良:たたら)」と命名され、同日付で支那方面艦隊上海根拠地隊、佐世保鎮守府籍の日本軍の砲艦船となった。
'42.1.22スミス艦長ら乗組員は上海近くの上海俘虜収容所に収容された(収容所開設は同.1.24)。収容所にはアメリカ人とイギリス人が収監され、収容所の周囲は脱走ができないように22000ボルトの電気配線で囲んでいた。同.3.10夜、電気配線の下を掘り、スミスと他3人が脱走。しかしすぐに4人とも捕らえられ失敗に終わった。日本側は要注意人物として厳しい処罰を与え、裁判にかけ死刑にさせようという声まであがる。
'43.6.8中国に国際的な犯罪者を収容するための刑務所が建てられたため移送される。この刑務所は高さ8メートル弱の壁に囲まれ容易に脱走ができない場所。ただし日本軍の収容所ではなかったため看守はイギリス人、アメリカ人、ロシア人もいた。'44.9 スミスは最初の逃亡失敗にもめげず、仲間を集い、看守の助けもあり脱獄に成功。その時、スミスの他に、イギリス海軍の司令官と米海兵隊と共に脱出に成功している。明らかに逃亡者とわかる姿であったが、脱走中に出くわした中国人の少年はスミスらを自宅に招き、その少年の父親は食事を提供した。当時の日本軍の勢力は中国の沿岸地域に集中しており内陸部まで未開拓であったことも幸いし、3人の脱走者は途中出くわす中国人たちに好意的にされ保護、食事、休息の場を与えてくれた。刑務所から700マイル(約1127キロ)の道のりを逃げ続け、同.11.23アメリカ軍により保護された。
脱走された日本側は米国政府に脱走者3名を処刑したと報告していたこともあり、米国側も戦死者としてリストし、家族にはその旨が伝えられていたため、スミスが生きてワシントンに凱旋した際の妻との再会はメディアにも取り上げられた。
<日本海軍特務艦船史> <日本海軍総覧> <「Columbus Darwin Smith: prisoner of war 1941」など>
*墓所は和型「澁谷家之墓」の右隣りに「故海軍大佐松田九郎之墓」墓柱が建つ。裏面は殉国した旨が刻む。「澁谷家之墓」の裏面は「昭和五十二年九月 澁谷巌 建之」と刻む。墓誌はない。
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