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わかすぎ かなめ

若杉 要

わかすぎ かなめ

1883(明治16)〜 1943.12.9(昭和18)

大正・昭和期の外交官

埋葬場所: 6区 1種 16側

<詳しい略歴は調査中>


 1937(S12)ニューヨーク総領事に就任。'41からは駐アメリカ公使として、駐アメリカ特命全権大使の野村吉三郎を補佐した。 当時は、太平洋戦争勃発間近であり、戦争を食い止めるべき、ルーズヴェルト米大統領やハル国務長官と会談を行ない、日米交渉の打開に努力した。 日米開戦後に帰国するも二年後に病没。享年60歳。正4位 勲2等。子の若杉弘は指揮者。
 現地での日本人外交官の動きは全てFBIに監視され、電話も盗聴されるなどの諜報工作が行われていた。 そのため、外交官同士のやり取りは暗号が使用されていた。 外務省記録の「日・米外交関係雑纂 太平洋ノ平和並東亜問題ニ関スル日米交渉関係」に、そのことを示す史料が残されている。 外務省のHPからその史料による暗号を引用紹介する。
 寺崎太郎アメリカ局長と若杉要駐米公使との国際電話で用いる合言葉は「マリ子」を使用した。 主に「駐兵問題ニ関スル米側態度」を示す合言葉として用いられた。 「マリ子」とは、当時在米大使館の一等書記官で、寺崎アメリカ局長の弟である寺崎英成(17-1-11-17)の長女の名前に由来したものであり、“暗号「マリ子」”として著名である。 当時、若杉は野村と共に、ハル国務長官と会談を行っており、日米交渉における3つの懸案である「日独伊三国同盟条約の解釈および履行問題」、「通商無差別問題」、「中国における日本軍の駐兵・撤兵問題」の打開の努力をしていた。 この中の、「駐兵・撤兵問題」について日本政府にとって最大限の譲歩案を提示するなど、交渉を続けるも、進展せず混沌が続いていた。 暗号はワシントンの在米大使館と東京の外務本省との間でも使用されており、例えば、「伊藤君」(=「総理」)、「伊達君」(=「外務大臣」)、徳川君(=「陸軍」)、「縁談」(=「日米交渉」)、「君子サン」(=「大統領」)、「子供カ生レル」(=「形勢急転スル」)、「七福神ノ懸物」(=「四原則」)、「ソノ後ノ公使ノ健康」(=「交渉ノ一般的見透」)といった合言葉が使用されていた。

<外務本省 「外交史料Q&A」など>


*墓所内墓石には和型「若杉家之墓」。裏面に「昭和二十年十月 若杉要 建之」と刻む。右面に俗名、生没年と共に正四位勲二等も刻む。若杉弘は刻まれていない。


若杉 弘 わかすぎ ひろし
1935.5.31(昭和10)〜 2009.7.21(平成21)
昭和・平成期の指揮者
 東京出身。父は日米交渉開始当時の駐アメリカ公使を務めていた若杉要。幼少の頃、ニューヨークで過ごす。 慶應義塾大学経済学部へ入学し、混声合唱団楽友会に所属した。音楽の道を断念できず慶應大を中退し、1963(S38)東京藝術大学指揮科に入学し直した。
 斎藤秀雄(2-1-4-4)に師事。卒業後はNHK交響楽団指揮研究員となる。'72読売日本交響楽団常任指揮者となる。 '77ケルン放送交響楽団首席指揮者にむかえられて以後、ドイツで活動。 ライン・ドイツ・オペラ音楽総監督(GMD)、ドレスデン国立歌劇場およびシュターツカペレ常任指揮者、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団首席指揮者などを歴任。 '91.4(H3)〜'92.7ドレスデン国立歌劇場音楽総監督、日本人が世界有数のオペラハウスの音楽総監督になるのは初めての快挙であった。
 東京都交響楽団音楽監督・首席指揮者を経て、'95NHK交響楽団正指揮者。'97東京芸大演奏芸術センター教授(後、名誉教授)。 '98オープンのびわ湖ホールの芸術監督として行ったベルディの歌劇シリーズの上演は高い評価を得た。2007新国立劇場オペラ芸術監督。 オペラ、コンサート両方に深く精通した指揮者として貴重な存在として活躍。 これまでに芸術選奨文部大臣賞、日本芸術院賞('92)、朝日賞、毎日芸術賞、サントリー音楽賞、NHK交響楽団有馬賞ほかを受賞。 '94日本芸術院会員。水戸芸術館には開館前から音楽部門企画運営委員として関わり、定期演奏会、企画・司会、審査委員を務めた。
 交響曲とオペラを指揮する違いを、下記のように述べている。 「オペラ指揮者は、いま目の前で響いている音だけに集中して、交響曲をやるような感覚で統括しようとすると、舞台の上の歌手たちが『息が吸えなく』なってしまう」「歌手に『息を吐かせる』のも大事。 歌いきらせて、二酸化炭素をめいっぱい出させてから、新鮮な酸素を吸わせて、それから次のアインザッツということです」。 小沢征爾氏と並ぶ日本の国際的指揮者として活躍した。2008年夏頃から膵臓の疾患で療養をしていたが、多臓器不全のため東京都内の病院で逝去。享年75歳。 密葬は近親者で営まれ、後日、お別れの会が新国立劇場中ホールで取り行われた。妻は声楽家・メゾソプラノ歌手の長野羊奈子。

<講談社日本人名大辞典>
<産経新聞訃報記事など>


長野羊奈子 ながの よなこ
声楽家・メゾソプラノ歌手
 東京芸術大学音楽学部声楽科卒業。1958(S33)旧西ドイツ政府給費留学生としてベルリン国立音楽大学に留学。 畑中良輔、ヘルベルト・フラウアー、田中路子に師事。日本人として初めてベルリン・ドイツ・オペラの正団員となり、<フィガロの結婚>のケルビーノ、<蝶々夫人>のスズキなどで活躍。 '65帰国後、新ウィーン楽派の歌曲による独唱会により、芸術祭大賞。 その優れた歌唱力と舞台上の際だった存在感により、オペラ、リート、オラトリオ歌手として確固たる地位を築いた。 東京芸術大学音楽学部講師を経て、現在は桐朋学園大学客員教授。二期会会員。 水戸芸術館の企画では、'95.5(H7)初演以来すでに全国で12公演を数える音楽物語「ぞうのババール」、「オペラの花束をあなたへ-IX ヴェルディ:歌劇 <リゴレット>ハイライト」('96.4)で表現力豊かなナレーションを聴かせている。

<水戸芸術館プロフィールより>


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