東京出身。父は日米交渉開始当時の駐アメリカ公使を務めていた若杉要。幼少の頃、ニューヨークで過ごす。慶應義塾大学経済学部へ入学し、混声合唱団楽友会に所属した。音楽の道を断念できず慶應大を中退し、1963(S38)東京藝術大学指揮科に入学し直した。
斎藤秀雄(2-1-4-4)に師事。卒業後はNHK交響楽団指揮研究員となる。'72読売日本交響楽団常任指揮者となる。'77ケルン放送交響楽団首席指揮者にむかえられて以後、ドイツで活動。ライン・ドイツ・オペラ音楽総監督(GMD)、ドレスデン国立歌劇場およびシュターツカペレ常任指揮者、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団首席指揮者などを歴任。'91.4(H3)〜'92.7ドレスデン国立歌劇場音楽総監督、日本人が世界有数のオペラハウスの音楽総監督になるのは初めての快挙であった。
東京都交響楽団音楽監督・首席指揮者を経て、'95NHK交響楽団正指揮者。'97東京芸大演奏芸術センター教授(後、名誉教授)。'98オープンのびわ湖ホールの芸術監督として行ったベルディの歌劇シリーズの上演は高い評価を得た。2007新国立劇場オペラ芸術監督。オペラ、コンサート両方に深く精通した指揮者として貴重な存在として活躍。これまでに芸術選奨文部大臣賞、日本芸術院賞('92)、朝日賞、毎日芸術賞、サントリー音楽賞、NHK交響楽団有馬賞ほかを受賞。'94日本芸術院会員。水戸芸術館には開館前から音楽部門企画運営委員として関わり、定期演奏会、企画・司会、審査委員を務めた。
交響曲とオペラを指揮する違いを、下記のように述べている。「オペラ指揮者は、いま目の前で響いている音だけに集中して、交響曲をやるような感覚で統括しようとすると、舞台の上の歌手たちが『息が吸えなく』なってしまう」「歌手に『息を吐かせる』のも大事。歌いきらせて、二酸化炭素をめいっぱい出させてから、新鮮な酸素を吸わせて、それから次のアインザッツということです」。小沢征爾氏と並ぶ日本の国際的指揮者として活躍した。2008年夏頃から膵臓の疾患で療養をしていたが、多臓器不全のため東京都内の病院で逝去。享年75歳。密葬は近親者で営まれ、後日、お別れの会が新国立劇場中ホールで取り行われた。妻は声楽家・メゾソプラノ歌手の長野羊奈子。