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まつだ げんじ

松田源治

まつだ げんじ

1875.10.4(明治8)〜 1936.2.1(昭和11)

大正・昭和期の弁護士、政治家

埋葬場所: 7区 1種 15側 23番

 大分県宇佐郡柳ヶ浦村(宇佐市柳ヶ浦町)出身。松田録兵衛の次男として生まれる。郷里で小学代用教員や電信技手をつとめ、18歳で独立独行の精神にて、1894(M27)上京。父兄の学資の支給を受けず、自活の余暇勉強をした。成功の最大要件は「自制・克己・修養・至誠、以て畜勉努力するにあり」という。
 上京後は、自力にて日本法律学校(日本大学)を卒業。文官高等試験と判検事登用試験の両方に合格。司法官試補を命ぜられ、福岡、佐賀などの区裁判所に勤務したが、8カ月で官を辞して、再び上京し弁護士となる。
 1908(M41)第10回衆議院議員総選挙に大分県郡部から立候補して初当選(以降当選9回)。立憲政友会に属す。'15(T4)第12回衆議院議員総選挙にて次点で3選を逃すが、同じ選挙区で最下位当選した政友会の成清博愛が半年後に辞職したため、繰り上げ補欠当選した。政友会では、会幹事、内務参事官、'22衆議院副議長をつとめた。
 '24(T13)政友会を脱して床次竹次郎(12-1-17-18)らと政友本党を結成。'27(S2)政友本党が憲政会と合同して立憲民政党を結成するとそれに参画。'29浜口内閣で拓務大臣として初入閣。
 '34岡田啓介(9-1-9-3)内閣の文部大臣に就任。同.8.28 就任してすぐに「日本精神鼓吹者」の立場から、「パパ」「ママ」は父兄への尊敬を失わせる結果を呼ぶ言葉なので駆逐せねばならないと、外来語を重視過ぎる傾向を批判したところ、物議をかもした。言語学者の新村出は、世界共通の活き活きした言葉だと擁護している。
 '35天皇機関説事件がおこり、軍部・右翼の圧力で国体明徴の訓令を発した。また同年、帝国美術院改組を発表。これは帝国美術院を挙国一致の指導機関にして美術界をその統制下におくことを目的とし、新たな在野の有力作家を会員に加え、従来の無鑑査出品を廃止し、新規定による更新などを内容としたものである。この改組は美術界に空前の混乱をもたらし、'37帝国美術院官制の制定をみることになった。
 '36.2.1 午後、東京帝国大学の医学部内科物理療法教室の三十周年記念祝典に出席した際、創設者の真鍋嘉一郎教授による直々の健康診断を受けたところ、心臓が肥大していることが判明し注意するよう忠告された。そのわずか3時間後、突如、心臓麻痺を起こして急逝。享年60歳。大臣在任中の死去であった。従2位 勲1等。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<大分県人士禄>


*墓所には二基建ち、右側墓石が「従二位 勲一等 松田源治 墓」。裏面「昭和十一年二月一日薨去 行年六十二歳 昭和十二年一月松田小林両家建之」。左側和型「松田家之墓」。左と裏面が墓誌となっている。
 妻の久子(1888-1932.2.15:静岡県出身:旧姓は高瀬)。3男2女を儲け、その一族全員が同墓に眠る。長女の清子(1911-1922.9.2)、長男の誠一(1913-1939.5.5)、二女の榮子(1915-1994.9.7)、二男の忠雄(1917-1998.3.24)、墓石裏面に三男の正雄(1920-2005.4.7)。


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