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もちづき けいすけ

望月圭介

もちづき けいすけ

1867.4.1(慶応3.2.27)〜 1941.1.1(昭和16)

明治・大正・昭和期の政治家

埋葬場所: 6区 1種 16側 12番

 広島県豊田郡東野村(瀬戸内海芸予諸島の大崎上島)出身。代々は島内最大の廻船問屋「大望月」(屋号:御下屋)。父の望月東之助・リンの三男として生まれる。幼名は三郎。兄の俊吉と共に家庭教師を付けられ学ぶ。
 当時の望月家は東京・品川台場に石材運搬をしていたこともあり、父の意向で遊学を勧められ、1880(M13)13歳の時に、兄と家庭教師と共に上京。近藤真琴の私塾の攻玉社中年部に入学。1881共立学校へ転じ、高橋是清(8-1-2-16)に英語を学ぶ。1883卒業。同期に床次竹二郎(12-1-17-18)、石塚英蔵(8-1-17)、大森房吉(3-1-24-1)、岡田啓介(9-1-9-3)らがいる。その後も大学予備門などで学んでいたが、家業が石炭輸送の販売など業務拡大に伴い人出を有することとなり、父から遊学を止め帰郷するようにと呼び戻された。叔父の源九郎の助手として長崎に出向き助手をし、その後、兄の俊吉と松島炭鉱の運搬と販売など家業の海運業を手伝う傍ら、採掘権を得て鉱山業にも乗り出した。
 1895台湾の日本統治が始まったことで、広島県会議員らと視察のために渡航。現地で一旗揚げるつもりであったが、マラリアにかかり生死の境をさまよい、失意の中で帰国。1897頃に兄の俊吉が自由党に属し政治活動を始め、影響を受ける。
 1898.3.15(M31)31歳の時、兄と同じ自由党に入党し、第5回衆議院議員総選挙に出馬。全く知名度もないため落選。だがこの選挙で自由党の議席が進歩党の議席数よりも1席上回ったことも影響し、第3次伊藤博文内閣がすぐに解散。同.8.10 第6回衆議院議員総選挙に広島6区から再度自由党から出馬、世の中の波に上手く乗ることが出来、前回敗れた進歩党候補者を破り初当選した。
 だが、1900 伊藤博文総裁で立憲政友会が結成され党を移るも、1901 第4次伊藤内閣が崩壊。中国・近畿遊説部隊員の一人に選ばれる。日清戦争の勝利で急速に成長した日本の資本主義が、帝国主義へと移行する時期で藩閥政府と政党との提携がはじまる中、政党政治家として活動。しかし、立憲政友会は寄り合いで結成したこともあり内紛の煽りを受ける。第1次桂内閣予算編成において、政府は対ロシア大作の軍拡に迫られており、財源を地租(固定資産税)増徴を検討するが、政友会は日清戦争の賠償金をあてるべきだとし、政府内でも妥協する派と推し進める派で対立。望月は地租の増徴を避けたい地方選出議員で構成した側にまわる。結局、党は妥協案を受け入れ地租の増徴を避けることで決着するが火種は残り、1902.8.10 第7回衆議院議員総選挙で政友会は189議席を獲得するも望月は落選した。
 帝国議会は地租増徴で揉め妥協はならず、同.12 解散。'03.3.1 臨時選挙である第8回衆議院議員総選挙で望月は復活当選をした。地租増徴に反発する党内の少数議員に望月も入り、党組織改革運動を展開。帝国議会では妥協案否決、望月も名を連ねた地租増徴反対派より問責決議が提出された。しかし議員総会が行われ伊藤博文の切り崩しにより政府案賛成が圧倒的となり、問責組は脱党せざるを得なくなった。これにより、同.6 広島県選出議員全員とともに政友会を脱党した。脱党後は問責脱党組の尾崎行雄が主催した純潔健全派と称した藩閥政府に対峙する同志研究会に属する。'04.3.1 日露戦争が勃発する中での第9回衆議院議員総選挙では中立の立場から無所属で出馬したが落選。'05 同志研究会員としてハワイで出征軍人家族への援助寄付金集めに奔走するなどしたが、終戦後に同志研究会は解体となり、立憲政友会へ復党することになる。
 '08.5.15 第10回衆議院議員総選挙に政友会として出馬し再当選。'09党大会で協議員に選出され、政務調査会第5分科(通信・農商務)理事に任命された。'12.5.15 第11回衆議院議員総選挙では次点で落選。しかし、失格者が出たため繰り上げ当選(補欠当選)を果たした。この頃は、まだ地盤が固められていない時期で当選と落選を繰り返していたが、兄の俊吉が常に選挙参謀となり不正を許さず、選挙活動で逮捕者を出さず、着々と地盤を固めていた。その努力により、'15.3.25 第12回衆議院議員総選挙以降は落選はなく、現職のまま没するまで当選し続けた(総当選回数13回)。この間、'12(T1)院内幹事就任、'14〜'18毎年幹事を務めた。
 '18 衆議院代表シベリア出兵慰問団団長。現地での演説で将兵は涙したとされ、新聞記事などで「人情の人」として評判になる。慰問中に原敬内閣が誕生し、幹事長に抜擢された。'20総務。'21.11.4 原敬が京都の政友会近畿大会へ向かう途中の東京駅乗車口で襲撃された原敬暗殺事件の際に随行しており、刺された原を駅長室に運び応急措置をしたが手遅れだった。総裁急逝の通知、最高幹部会開催、協議会、総裁薨去の報告、党葬の決議、各種事務処理など後処理の陣頭指揮をとった。原の盛岡での本葬に党本部代表として出席。
 高橋是清内閣以降、短命内閣が続く中、政友会の幹事長や総務の裏方の役職として支えるも、政友会から政友本党が分裂し第一党の地位を失っていく。その中で、'23関東大震災が起こった。'24 憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲三派連立内閣・加藤高明内閣が発足。'25 農林・商工大臣を兼務していた高橋是清の後任として商工大臣に推薦されたが、固辞して岡崎邦輔を推薦し、岡崎が農林大臣、野田卯太郎が商工大臣となり、その裏方として支えた。
 一貫して裏方に専念をしている中、郷里では大臣就任を待ち望んでおり、その声は本人の耳にも入る。昭和金融恐慌で第1次若槻内閣が倒れ、田中義一(6-1-16-14)内閣が発足するに伴い、田中より直々に大臣の要請を受ける。'27.4.20(S2)田中義一内閣の逓信大臣に就任。閣議決定をした郵便料金の増税、航空法の施行、国際航路含めた定期航路の保護奨励、国策会社日本航空輸送の設立推進などで尽力し、大臣として初めて飛行機に乗った人物であり羽田飛行場から約10分間東京の空を飛んだ。'28.3 本郷郵便局の集配人が小包郵便取扱上の過失で解雇され、同局の別の集配人が不穏な行為があったと罷免されたことを発端とし、逓信系労働団体の逓友同志会が不当解雇に対するストライキを起こそうとした際に、望月は官僚が決定した案件を覆し「解雇する程度のものではない。団体側の主張は合理的」として、解雇取り消しとして団体活動の理解を示した。大臣が直接裁いたこの事件は当時前代未聞で逓友同志会側も感服、無産政党からも一目置かれるようになった。
 第1回普通選挙では政友会選挙相談役となり、選挙後は政友会と実業同志会との協定に向けて動いた。'28.5.23 田中内閣の内務大臣に就任。当時の新聞は政党政治家の叩き上げの人物で内相になったのは望月が初であると報じた。司法大臣の原嘉道(10-1-1)と治安維持法改正に取り組んだ。改正案が成立すると、御大典における警備最高責任者として各警察・保安・特高に指導激励して回った。持ち前の人使いのうまさで官僚に任せつつも要所を抑えるやり方で、人事介入をせず地方長官の更迭は一切なく、利権に絡む誘いに興味を示さず、金や地位に執着しない。指導も行き届き環境づくりも良く「人情大臣」と称された。しかし、田中内閣は張作霖爆殺事件など様々な問題が批判され、'29.7.2 総辞職。これを最後に再び裏方にまわり大臣にはならないと決めたという。
 大臣退任後は立憲政友会総務に復帰。長老として党内調整役を進んで買って出た。'29 田中義一総裁死去に伴い、次の総裁を巡り党内分裂が起きそうになった際、犬養毅を推薦し総裁に担ぎ上げ、'31犬養内閣の発足に繋げた。'32 五・一五事件で犬養が暗殺され、次の総裁に党内で鈴木喜三郎派と床次竹二郎派が争い、無用な争いを避けるため床次を説得し辞退させた。ところが、鈴木側は望月を味方として思っておらず、このすれ違いが対立に発展する。
 選挙で絶対安定多数を獲得していた政友会であるため、犬養内閣の後は、総裁になった鈴木内閣となるべきところ、陸軍が政党単独内閣を許さず、政党・官僚から広く閣僚を採用する挙国一致内閣に決まり、齋藤實(7-1-2-16)内閣が成立。これに伴い、鈴木は政党単独内閣を目指し齋藤内閣と対峙し強情派の姿勢を示し、現状の挙国一致内閣を推進する自重派と党内は分裂した。望月はその仲介に入り奮闘。だが、対立は深まるばかりであり、党内の派閥争いがとうとう議会にまで波及した。不毛な派閥争いの中、鈴木総裁に不満を抱いた望月は、衆議院に議員辞表を提出。表向きは会期に3人も除名処分者を出した責任をとるという形。この行動は鈴木派を非難する行動にうつり、対立派が活気づくも、幹部会や鈴木総裁は辞表を撤回するよう説得。鈴木総裁が折れ、党の団結を働きかける動きになったことで辞表を撤回した。
 '34齋藤内閣が倒れ、挙国一致内閣である岡田啓介内閣が成立。旧知の仲であった岡田首相から農林大臣としての入閣要請があったが断り秋田清を推薦した。岡田首相は各党に協力を求める姿勢であったが、大部分の政友会党員は岡田内閣を否定し、鈴木総裁の派閥が主導で政党単独内閣を目指し野党として対立姿勢を取ることになった。岡田内閣に入閣した政友会の床次竹二郎、山崎達之輔、内田信也とこれに同調する議員は政友会幹部会によって除名処分とされた。入閣をしなかったが岡田内閣に協力的な望月と、党に潰され入閣には至らず党に不満を持った秋田清は危険分子と見られるようになった。そんな折、党の重鎮であった高橋是清が岡田内閣に入閣したため除名処分となり、また予算総会において鈴木派の不手際で政府案に屈服するなど、党内を揺るがす事件が重なり、離党者が出、秋田清も離党した。
 '35岡田内閣は内閣とは別に重要国策を挙国一致で取り組むため角界の有力者で構成した詰問組織の内閣審議会を設置。岡田内閣は政友会幹部会に反発する政友会勢力から、離党していた秋田清、貴族院所属の水野錬太郎を審議会に引き入れた。3人目の候補として望月を抜擢。「わざと自分から脱党はせん。除名するなら仕方ない」と、同.5.10 党議に反して政友会所属のまま審議会に入った。同日付で、政友会幹部会は望月と水野の除名処分を下した。
 先に立憲政友会を離れ逓信大臣となっていた床次竹二郎が急逝。同.9.12 後任に抜擢され岡田内閣の逓信大臣に就任。翌日、元政友会で閣僚の高橋、山崎、内田、望月で新党結成に向けて協議をし、同.12.23 閣僚4人と政友会脱党議員14人で新生党「昭和会」を結成した。逓相としては岩永裕吉(9-1-4-7)らと、国際関係が悪化していた日本国において、国家代表通信社の設立を提唱し、軍部・政府に働きかけライバルの日本電報通信社(電通)と連合の合併した同盟通信社を設立させた('35.11.7 社団法人設立認可提出)。
 政友会の提出した内閣不信任決議が可決されたことを受け、'36.1.21 衆議院を解散、同.2.20 第19回衆議院議員総選挙を実施し、政友会は大敗、民政党が第一党となり、望月所属の昭和会と国民同盟の議席を合わせた与党は安定多数を獲得した。しかし、その6日後に二・二六事件が起こる。原宿の自宅にいた望月に原宿警察署長が警備に入り避難勧告をしたが勧告を受け入れず、宮内に参内すると自動車に乗り皇居へ向かった。賊軍に阻止されるも毅然とした態度で抗議し通過、参内した閣僚閣議を行い、後藤文夫内相の総理大臣臨時代理を決定、即座に上奏裁可、処理にあたった。同.3.9 内閣総辞職までの間、逓信大臣として放送および電信電話を掌握、戒厳司令部と連携して対応した。
 二・二六事件で高橋是清死去で、昭和会は望月と内田が引っ張ることとなった。その後の廣田内閣、林内閣では与党であったが、林銑十郎(16-1-3-5)内閣では政友会と民政党に二大政党が野党となり苦戦。衆議院を解散し行った、'37.4.30 第20衆議院議員総選挙では、与党議席を減らし林内閣は総辞職。同.5.21 昭和会を自主解散して、無所属となった。
 この時期の政友会は中島知久平(9-1-2-3)を総裁とした革新同盟と久原房之介を総裁とした正統派に分裂していた。中島派に属していた政友会の重鎮たちは、解散した昭和会を勢力に入れようと画策。'39政友会中島派に復帰。'40.2 米内内閣の内閣参議に就任。夏ころに既存政党を解党し総結集する考えの大政翼賛会に合流。年末、体調を崩し、同.12.27 帝国議会開院日に議会に向かおうとしたが家族に止められ欠席する。同.12.29 状態は急変し、翌.1.1 急性肝炎のため逝去。享年73歳。臨終には岡田啓介、中島知久平、内田信也、秋田清が立ちあった。従2位追贈。勅使(徳川義寛)御差遣を賜う。'41.1.7 告別式を築地本願寺で行われた。広島県が県葬を打診したが遺族が断り、同.2.4 大崎上島・下島の両島の島葬が行われた。

<コンサイス日本人名事典>
<「望月圭介伝」望月圭介伝刊行会など>


墓所 側面 南無阿弥陀仏

*墓石は和型「望月圭介之墓」。前面には「海軍大将岡田啓介謹書」と刻む。左面に戒名「大乗院殿釋桂崖明徳大居士」、歿年月日、享年は75才と刻む。裏面は「昭和十七年十一月建之」。墓所右手側に和型「南無阿弥陀佛」と前面に刻む墓石が建つ。墓誌などない。

*望月圭介は最初、1895(M28)ハルと結婚をしたが、嫁姑問題がありすぐに別居し、1897 離婚。二人の間に子はいなかったため、離婚成立後、すぐにチサトと再婚。チサトとの間に3女。委子、チエ、三重を儲ける。圭介の兄の俊吉が亡くなった後、圭介は俊吉の子ども1男7女を全員面倒をみた。兄の一人息子の望月龍は満州鉄道に勤め、戦後は広島県会議員となった。龍は圭介の次女のチエと結婚。俊吉の娘のひとりである ふじ を圭介は正式に養女として引き取っている。

*望月圭介が政治家になって以降はほとんど東京で暮らしており、大崎上島に住む家族とは別居状態であった。東京では新橋の芸妓の千代と同棲をしていた。圭介が当選と落選を繰り返していた経済的に苦しかった明治期は、千代が支えていたという。1913(T2)妻のチサトが亡くなったため、娘たちを東京の自宅に呼び寄せる。同棲していた千代は事実上の後妻のような立場として娘たちの面倒を見、仲良く暮らした。しかし、千代は亡くなったチサトや娘たちのことを考え、正式に籍は入れなかったという。千代は病気がちだったことから、'21(T10)亡くなった。圭介と千代の間には子どもはいない。

*兄の俊吉没後の家業の大望月の造船業は、圭介の末弟の望月乙也が引き継いたが、1918(T6)頃に廃業し売却。乙也は東野村村長を経て、兄の俊吉の基盤で広島県会議員に当選、圭介が内務大臣の頃は、県会議長を務めた。

*広島県豊田郡大崎上島町にある生家は現在「海と島の歴史資料館」となっている。望月家が手放し人手に渡って居た所へ大崎上島町が買い取り資料館として再整備し、2002(H14)開館した。


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