群馬県新田郡尾島村(太田市)出身。農家の中島粂吉と いつの長男として生まれる。1907(M40)海軍機関学校卒業(恩賜・15期)。翌年少尉に任官。'11日本で2番目の操縦員として日本最初の飛行船のイ号飛行船試験飛行を行う。大尉に昇進し、'12海軍大学校卒業を経て、米国出張。米国で日本人で3人目となる飛行士免状取得。'16(T5)海軍士官としてヨーロッパへ航空事情の視察。帰国後、飛行機工場長として複葉の水上機を設計。これが横須賀海軍工廠の長浦造兵部で完成され、横廠式と名づけられた。
大艦巨砲主義が強かった海軍内において、民間製作として国産航空機をつくる必要性を説き、民間航空工業の魁(さきがけ)とならんとする気概に溢れたため「飛行機製作会社設立願い」を提出したが、海軍省内で問題となったため、「退職の辞」を提出し、新航空軍備への転換・設計製作の国産化・民営生産航空機たるべきことを強調。'17.12.1海軍の中途退役が認められ予備役に編入した。
早々、同.12.21郷里の群馬県太田の町の所有になっていた東武鉄道旧博物館の建物にて「飛行機研究所」を設立し、飛行機製造技術の開発を行う。東武鉄道旧博物館は東武鉄道創始者の根津嘉一郎(15-1-2-10)が東京蠣殻町にあった旧米穀取引所の建物を移築し、そこに農産物を博物館形式に揃えて新名所にしようと、観光名所である大光院(通称 呑竜様)に訪れた観光客の集客を目論見だが外れ、根津は町に博物館を寄付したという経緯があった。一部三階の二階建ての洋館の旧博物館は、一階を事務所、二階を十畳ほどを知久平の居室と設計製図室に当て、やがて部品や板金工場も新設していった。この民間初の飛行機研究所が太田の新名所となり、「呑竜工場」「飛行場」と呼ばれ親しまれた。
'18.4.1東京帝国大学に「航空機研究所」が設立されたため、名前の混同を防ぐために、同月より「中島飛行機製作所」と改称した。翌月、川西清兵衛から出資を受け日本飛行機製作所と再改称したが、翌年には買戻しをし再び中島飛行機製作所に名称を戻している。
'19.2中島四型6号機の試験飛行に成功。以降、陸軍から中島式五型と甲式練習機、海軍から横廠式ロ号甲型水上偵察機、アブロ式練習機、ハンザ水上偵察機などの大量発注を受け活況を呈した。'22中島商事を設立し、鉱山部を置き千歳鉱山の開発を行っていたが、'36千歳鉱山株式会社を設立し運営を移管。九州の錫鉱山(岩戸鉱山)も保有していたがこれも移管した。
'25中島飛行のエンジン製造拠点を東京工場として現杉並区荻窪に置き、フランス・ロレーヌ社のW型エンジンのライセンス生産でスタート。翌年よりエンジンの自主開発に着手した。この時、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業したばかりの田中正利を設計主任に命じるなど、進取の気性に富む伝統(「組織の三菱、人の中島」と称された)は、若い技術者にチャンスを与え、責任と誇りを持たせる育成術からきている。
'33社内開発符号NAMエンジン、後の海軍の制式名称「栄11型」1000馬力の設計や「寿」の成功は中島飛行機の発動機部門が日本の空冷星型エンジンのトップの地位を占めることとなった。更に高出力タイプ「栄21型」など零戦や隼に搭載され、日本で最多量産の航空エンジンを生み出した。
'38東京三鷹の武蔵野町に陸軍の発動機を生産する中島飛行機武蔵野製作所を開設。海軍はそれに対抗し、その隣に、'41海軍の発動機を生産する中島飛行機多摩製作所を開設。正田十吉(10-1-4)が創業した正田飛行機製作所などと連携し三鷹の地は航空工業で繁栄した。中島飛行機の一式戦闘機は陸軍に正式採用され、戦時中は陸軍戦闘機・飛行機の3割近くを独占生産する大企業に成長した。
中島飛行機は巨大化する中で、経営面を弟の中島喜代一に譲り、自身は政界に打って出る。'30(S5)第17回衆議院議員選挙に立憲政友会公認で出馬し当選、以降当選5回。翌年、犬養毅内閣の商工政務次官となる。'31より国政研究会(〜'40)、'32より国家経済研究所(〜'43)を設立して学者を招致して国内外の政治経済状況を調査研究をさせた。'33立憲政友会の総務委員を拝命。'34国政一新会を結成、政友会顧問。'37鈴木喜三郎総裁の辞意に伴い、鳩山一郎、前田米蔵、島田俊雄とともに政友会の総裁代行委員に就任。'38近衛文麿第1次内閣の鉄道大臣として初入閣。同.12.2鉄道幹線調査分科会をつくり、海底トンネルのための地質調査や大陸連絡構想を島安次郎(15-1-2-15)らと連携し、「弾丸列車」の俗称で有名になる新幹線構想を発表するなど沸いたが戦局悪化で中止となった(戦後の新幹線開発につながる)。
'39.3.28政友会の分裂に伴い、政友会革新同盟(革新派:中島派)を結成し、鳩山一郎と政友会8代総裁をめぐる闘争が起こった。当人は総裁になる意欲はなく、鳩山の反対勢力として周囲に担ぎ上げられ総裁となった。'40政友会中島派は新体制運動に伴い解党し、大政翼賛会へ合流、内閣参議に就任。'41翼賛会顧問に選ばれ、'42翼賛政治体制協議会顧問となり、翼賛選挙を推進。'45.8 敗戦直後、東久邇内閣で軍需省解体(同.8.20)までの短い期間、軍需大臣、解体後の商工大臣に就任し戦後処理にあたる。中島飛行機も一時国営に転換された。
その後、同.12 GHQによりA級戦犯に指定され出頭命令がくだるも病気を理由に拒絶し、三鷹の中島飛行機敷地内の泰山荘にて自宅拘禁扱いとなる。'46公職追放。'47.9 A級戦犯解除されるも二年後、東京三鷹の泰山荘にて脳溢血のため急逝。享年65歳。
知久平は泰山荘を遺すことを遺言。'60母屋は漏電による火災で焼失したが、2001(H13)泰山荘再建プロジェクトで残った建物が修復された。土地買収に関しては、当時の所有者の山田敬亮(日産財閥で茶人)が知久平の後世に残して欲しいという志を受け、ICUに引き継がれ現在一般公開され遺言が果たされている。なお、中島飛行機解体整理にあたり、大部分の土地を手放さざるを得なくなり、'53跡地に国際基督教大学(ICU)が創立され、中島飛行機(富士産業・富士重工業)には約1割だけの土地が残され、現在スバル研究所として技術研究開発の拠点となっている。
'55渡部一英の著『巨人 中島知久平』の序文の中で、海軍大将の井上幾太郎(12-1-7)は、「余は既に八十路の坂を越えているが、まだ中島君より偉いと思われる人に接したことがない。とにかく、中島君の人物が巨大でそれに卓越した頭脳を持っているのであって、その高邁なる見識と先見の明には驚嘆せしめられるものがある・・・」と述べている。
<コンサイス日本人名事典> <中島知久平をめぐる逸話集(1983)> <渡部一英『日本の飛行機王中島知久平―日本航空界の一大先覚者の生涯』など>
【中島知久平のペットは「ライオン」】
ライオンをペットとして飼育していた逸話がある。'34.4(S9)エチオピア皇帝から上野動物園に寄贈されたライオンに子供が生まれた。知久平はそれを譲って欲しいと懇願。交換条件として、動物園側が欲しがっていたオットセイを苦心して手に入れ、ライオンのオス・メスの各1頭を入手した。ライオンの子は東京牛込の中島邸内で飼われた。秘書がライオンを連れて銀座を歩き騒ぎとなったり、当時はライオンを飼うことに対して取り締まる法律がなかったため、警察も困り交通妨害罪になるという理由で帰らせた。またライオン係が餌を与えようと檻を開けたところ逃げ出し、ライオン係二名に怪我を負わせ、邸外に逃げ出すことはなかったが邸内を暴れまわる騒動を起こし新聞沙汰になったこともあった。その時の東京朝日新聞には四段の大見出しで「血に飢えたライオン 猛然と二人を噛む 中島知久平のペット 突如檻から脱出」。事件当日外出をしていた知久平は、この不祥事の連続に恐縮し、即座に動物商に引き取ってもらったという。
*広大な墓所に二基。左から和型「中島知久平墓」。左面に戒名と没年月日が刻む。戒名は知空院殿久遠成道大居士。享年は六十六と刻む。知久平墓の右に「中島家之墓」が建つ。両方とも建之者は中島源太郎で、裏面に名が刻む。墓所右側に墓誌があり、戒名・俗名・没年月日・行年が刻む。右から中島知久平、中島ハナ、中島源太郎、生後二か月で亡くなった嬰児、中島洋次郎の名が刻む。
*知久平は「国家のために働くのが自分の使命で、そのために女房は必要ない」とし、生涯正妻を娶らなかった。しかし、両親から中島家の跡継ぎをと懇願され、中島飛行機を立ち上げた頃より、自分の身の回りの世話をしてくれていた小島ハナを内縁の奥方とし、その間に一男一女を儲け、養子として籍に入れた。一男は中島源太郎であり、一女は久代。洋次郎は孫。ハナが入籍をしたという文献などは見つかっていないが、墓誌には「中島ハナ」として刻まれ中島家の墓に眠っている。
*郷里の太田市押切町の大悲山徳性寺にも分骨墓が建つ。また太田市役所尾島庁舎に知久平の銅像が建つ。
第142回 じゃ、オレがつくる! 中島飛行機 ペットはライオン 中島知久平 お墓ツアー 「多磨霊園に眠る10人の大空に挑んだ男たち」シリーズ3
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