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しょうだ じゅうきち

正田十吉

しょうだ じゅうきち

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大正・昭和期の海軍軍人(機関大佐)、
実業家(正田飛行機製作所)

埋葬場所: 10区 1種 4側

 岡山県出身。1911.7.31(M44)海軍機関学校卒業(20期)、同期に鉾立金矢(後の中将・21-1-11)らがいた。機関少尉候補生となり、翌年.12.1少尉に任官。'14.12.1(T3)中尉、'17.12.1大尉、'23.12.1少佐と累進し、広島工廠航空機部員に着任。'28.12.10中佐に進級し海軍航空本部付となり、'29(S4)『我國の工業と航空機材』を著した。
 大艦巨砲主義が強かった海軍内において、早くから航空機の必要性を説き、中島飛行機製作所を創設し航空機の生産を行っていた中島知久平(9-1-2-3)を見習い、民間飛行機会社の必要性を感じる。海軍機関大佐に昇進していたが、海軍を辞し、1933(S8)若者の教育(青年学校)や新しい飛行機技術開発に取り組むため、東京府北多摩郡三鷹町下連雀に「正田飛行機製作所」を創業し、所長に就任。
 正田飛行機製作所創設をきっかけにし、'36三鷹航空工業が建設され、'37日本無線電信電話が同じ地域に移転してきた。'38武蔵野町に陸軍の発動機を生産する中島飛行機武蔵野製作所が開設。海軍はそれに対抗し、その隣に、'41海軍の発動機を生産する中島飛行機多摩製作所を開設。これにより、正田飛行機や三鷹航空工業は中島飛行機に発動機の部品を供給することになる。この間、'39調布飛行場の開設とともに国立中央航空研究所が設置された。その後も三鷹周辺には日本無線の下請け工場や中島飛行機の2つの製作所の下請け工場などが次々と建設される。太平洋戦争直前に軍需関連の大企業の工場が次々と三鷹に集まり、工場労働者のための社宅も数多く建設されて、'35三鷹の人口は11,810人だったが、'40には24,247人に急増し、町制が施行された。三鷹市近代工業の先駆けは、正田飛行機の創設からと言われており、三鷹の軍需工場の草分けと称される。
 正田飛行機製作所では主に練習機に使う小型エンジン、船外機・敵前上陸用の船のエンジン、中島飛行機で必要なエンジンのピトー管を生産。流体の流れの速さを測定する計測器であるピトー管(飛行機の速度をはかる機械)が優れており、中島飛行機製作所からの一番の受注会社となった。更に軍需省からピトー管の生産の命令がくだるまでとなり、軍需工業ではトップの中島飛行機に次いでのトップクラスの製作所に発展した。また幻の最先端エンジンと称された「試発六(しはつろく)エンジン」を製作。'48 敗戦に伴いわずか15年で閉所することになった。

<日本海軍士官総覧>
<中島飛行機三鷹研究所 その建設まで 高柳昌久><中村八郎「正田飛行機製作所での日々」(調布市戦争体験映像記録)>


*墓所内には正面に「正田家之墓」、左側に「槇野家之墓」、右側に「鈴木家之墓」が並んで建つ。正田家の墓石の裏面は「昭和十三年十二月 正田十吉 建之」と刻む。槇野家の墓石の裏面は「平成七年八月 槇野昌子 建之」と刻む。鈴木家の墓石の裏面は「平成十年五月 進二久勝匡邦之建」と刻む。墓所右側に墓誌が二つ並ぶ。正田家と鈴木家の併せた墓誌である。正田十吉の戒名は大廉院十身調御居士。妻はの乃。十吉の長男の正田一郎は殉職(29歳歿)、三男の秀郎も23歳の若さで没している。十吉の次男は吉信。鈴木敬彌は海軍少佐。墓石に「従五位 勲四等瑞宝章」と刻み、戒名は大賢院祥覚敬法居士。妻は鮎子。敬彌の三男の鈴木匡邦も眠る。墓所左側にある墓誌が槇野家の墓誌で「正四位 勲二等 第六十九代 警視総監 瑞岳院法光智勇居士」と刻む。妻は昌子。


鈴木敬彌 すずき けいや
海軍少佐
 府立八中を経て、1932.11.19海軍兵学校(60期)卒業し、少尉候補生となり、'34.3.31少尉に任官。'35.11.15中尉となり、灘風砲術長に就任。'38.6.1大尉を経て、'42.11.1少佐に昇進。

<日本海軍士官総覧>


 


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