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さくた とくじ

作田徳次

さくた とくじ

1876.2.27(明治9)〜 1932.5.25(昭和7)

明治・大正期の陸軍軍人(少将)

埋葬場所: 7区 2種 32側 2番(稲波家)

 石川出身。1900.11.21(M33)陸軍士官学校卒業(12期)。同期に杉山元(後に元帥:15-1-3-11)、畑俊六(後に元帥)、小磯国昭(後に大将・首相)、岩越恒一(後に中将:13-1-26)、毛内靖胤(後に中将:9-2-2-5)、柳川平助(後に中将:15-1-9)、岩田恒房(後に少将:12-1-13)、岡千賀松(後の少将:23-1-2)らがいた。'01.6.25工兵少尉に任官。
 その後、様々な要職を経て、'22.8.15(T11)工兵第14大連隊長を務める。'23.8.6 工兵大佐に昇進し、鉄道第一連隊長に就任。就任した翌月に関東大震災が発生したため、鉄道復旧作業の陣頭指揮を執り、山之内二郎陸軍少将(12-1-2)の父で鉄道大臣であった山之内一次らと帝都復興に尽力した。
 '24.12.15 工兵監部員を経て、'28.8.10(S3)少将に進み、澎湖島要塞司令官に着任した。澎湖島(ほんことう)は台湾島の西方約50kmに位置する台湾海峡に浮かぶ澎湖諸島で、現地ではポンフーと呼ばれる。日本統治時代は台湾総督府に直属する行政機構の高雄州の下部組織に編入されていた('26より澎湖庁として台湾総督府直属機関となる。現在は中華民国澎湖県)。'31.8.1 佐世保要塞司令官に就任。'32.6.27予備役に編入した。享年56歳。

<帝国陸軍将軍総覧など>


墓所

*墓石は藏状で正面「稲波家代々之墓」。右面に墓誌がはめ込まれており、「陸軍少将作田徳次」と生没年月日の刻みから始まる。妻は浪恵(S20.11.2歿)。稲波弘次の戒名は大乘院釋弘海居士。妻は澄江(S23.5.12歿)、1歳で亡くなった晴美(S20.12.18歿)も眠る。弘次の長男は医療法人財団 岩井医療財団会長、稲波脊椎・関節病院名誉院の医学者の稲波弘彦。弘彦の義父は岩井宏方。


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