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もうない のぶたね

毛内靖胤

もうない のぶたね

1880.3.1(明治13)〜 1936.1.16(昭和11)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 9区 2種 2側 5番

 青森県弘前市出身。弘前藩士の毛内嘉胤の長男として生まれる。毛内氏の嫡流で、伯父に新撰組隊士の毛内有之助がいる。弟は海軍少将の毛内效。
 弘前中学を経て、1900.11.21(M33)陸軍士官学校卒業(12期)。同期に杉山元(後に元帥:15-1-3-11)、畑俊六(後に元帥)、小磯国昭(後に大将・首相)、岩越恒一(後に中将:13-1-26)、柳川平助(後に中将:15-1-9)、岩田恒房(後に少将:12-1-13)、岡 千賀松(後に少将:23-1-2)、作田徳次(後に少将:7-2-32-2)らがいた。
 '01.6.25工兵少尉に任官し、歩兵第5聯隊附となる。翌年、台湾守備歩兵第8大隊附。日露戦争に従軍。'06歩兵第25聯隊附から'07中隊長へ昇格。陸軍大学入校し、歩兵第28聯隊中隊長、'10.11.29陸軍大学校卒業(22期)。
 '11教育総監部附勤務から課員となり、'13.8.22(T2)少佐に昇級し歩兵第54聯隊附。'14.2.3歩兵第36聯隊大隊長、'16.2.29第2師団参謀、'17.10.12中佐になり歩兵第5聯隊附、'18.7.24第11師団参謀を歴任し、'21.7.20歩兵大佐に昇格して朝鮮軍司令部附となった。'22.6.3歩兵第75聯隊長を任ぜられた。
 '23.8.6草創期の陸軍航空の体制整備のため、陸軍航空学校教育部長に就任した。'24.5.17所沢陸軍飛行学校教育部長、同.12.15陸軍航空部部員、'25.5.1歩兵から航空兵科に転身し、陸軍航空兵大佐となり、陸軍航空本部第1課長に着任。'26.3.2少将に累進し、陸軍航空本部附。同.12.1陸軍航空本部検査部長に補された。
 '28.3.8(S3)明野陸軍飛行学校長に就任。'29.8.1陸軍航空本部総務部長、'31.1.21勲二等瑞宝章を受章し、同.3.11中将に昇進、同.10.3東京湾要塞司令官を務めた。'32.4.11待命、同.4.26予備となった。退任後は屋井乾電池社長を務めた。正4位 勲2等。享年55歳。

<青森県人名大事典>
<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>


*墓石正面は「毛内家之墓」。墓誌には享年57才と刻む。戒名はない。


【屋井乾電池】  1888乾電池はガスナーという人物が考案したとされる。世界的には彼を乾電池の租と言われている。  ところが、屋井乾電池の先代の社長である屋井先蔵(1864-1927)が、ガスナーが考案した年よりも3年も早い、1885(M18)に乾電池を発明。連続電気時計を発明した際に、これに使用するための液体電池は冬季の凍結防止など維持に手間がかかることから乾電池開発に着手したのが動機。しかし、特許取得料金は高額であったため申請が出せないでいた。1892(M25)シカゴの万国博覧会に東京帝国大学から出品した地震計に屋井乾電池が使用され、世界学会に一大衝動を与えたという。これによって、1893.11.21ようやく屋井乾電池が特許取得したという。当時の乾電池には灯火用とラジオ用と通信用の三種で、屋井は通信用を主力としていた。その後、ラジオの流行で乾電池の需要が多くなった頃の社長が毛内靖胤となる。

<1935.2.8(S10)時事新報「海外へ飛躍するわが乾電池 発明の租は日本人」など>


※ヨミを「やすたね」としている人名事典が多いが、軍人関連の事典ではわざわざ振り仮名までふっているので、そちらを優先した。

※没年月日が人名事典で 1935.12.16歿 としているところも散見したが、墓石には昭和11年1月16日と刻むのでこちらを優先とする。


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