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やながわ へいすけ

柳川平助

やながわ へいすけ

1879.10.2(明治12)〜 1945.1.22(昭和20)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 15区 1種 9側

 長崎県西彼杵郡村松村(長崎市時津町)出身。楠木友太郎の二男として生まれる。兄の楠木志能夫は開業医(眼科医)。幼少期に佐賀県の柳川家の養子となる。旧姓は楠木。
 1900.11.21陸軍士官学校卒業(12期)。同期に杉山元(後に元帥:15-1-3-11)、畑俊六(後に元帥)、小磯国昭(後に大将・首相)、岩越恒一(後に中将:13-1-26)、毛内靖胤(後に中将:9-2-2-5)、岩田恒房(後に少将:12-1-13)、岡 千賀松(後に少将:23-1-2)、作田徳次(後に少将:7-2-32-2)らがいた。騎兵第13連隊付を経て、1904(M37)中尉の時に日露戦争に従軍。
 '12 陸軍大学校卒業(24期・恩賜)。同期に南京攻略を共にし戦後南京事件の責任を問われ処刑された谷寿夫(後に中将:13-1-21)がいる。'15(T4)陸軍大学教官、'18 北京陸軍大学教官を務めた後、'20.8.19 参謀付となり国際連盟に派遣される。欧州駐在などを経て、'22.8.15 大佐に昇進し、'23 騎兵第12連隊長となる。
 '25.5.1 参謀本部演習課長、'27.4.1(S2)少将に昇格し、騎兵第1旅団長となり第1次山東出兵に参加。'29.8.1 騎兵学校長、'30.12.22 騎兵監を務めた。'31.12.12 中将に累進。
 '32.8.8 荒木貞夫(8-1-17)陸軍大臣の下で陸軍次官に抜擢され、真崎甚三郎らと皇道派の重鎮となる。'34.4.29 勲1等旭日大綬章。同.8.1 第1師団長に着任したが、荒木・真崎の陸軍内部の力が衰えたため、'35.12.2 台湾軍司令官に転任させられた。この時期、'36.2.26 二・二六事件が起きる。皇道派であったため、同.8.1 参謀付にされた後、同.9.19 待命、同.9.20 予備役に編入させられた。
 しかし、支那事変、第二次上海事変が起こり日中戦争に突入すると、中国国民党軍を押し切れない上海派遣軍の支援のため第10軍が編成される。'37.10.14 召集され、第10軍司令官に補され、杭州上陸作戦を指揮した。杭州湾に上陸して上海戦線の背後に迫り、敵軍勢力を崩壊させて上海攻略に貢献した。更に参謀本部や上海派遣軍の意向を無視して独断で中国軍を追撃し、南京攻略戦へ発展させ南京城を占領した。'38.3.9 中支那方面軍の再編成に伴い召集解除され帰還。
 同.12.16 設立された興亜院の初代総務長官を任ぜられる。'40.12.21 第2次近衛文麿内閣で司法大臣に就任。'41.7.18 第3次近衛内閣で国務大臣を務め政治家としても手腕を発揮。同.10.18辞職。のち、大政翼賛会副総裁を歴任。
 武人として優れ、政治力にも富む。騎兵科出身将校特有の颯爽とした勇姿、とくに、いかなる場合も外套(がいとう=オーバーコート)を用いぬ態度には魅力があったという。従2位 勲1等 功2級金鵄勲章。享年65歳。
 没後、'71 菅原裕 著『日本心−覆面将軍柳川平助清談』が刊行された。この本は巻頭に荒木貞夫「柳川将軍を偲ぶ」の一文から始まり、談話調で書かれ、誤解され続けた柳川の真面目さを知って欲しいという願いが込められた一冊である。また、2005(H17)兄の楠木志能夫に出された柳川平助自筆の書簡が長崎県大村市で発見された。1927〜1944の間に書かれた書簡には、二・二六事件前に書いた政府や軍に対する不満や不信感が綴られており貴重な資料となっている。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>
<20世紀日本人名事典>
<人事興信録など>


*墓石は和型「柳川家之墓」、左右は墓誌となっている。右面は柳川清明(三男)、愛子(五女)、平助、清宇(二男)、長男の清成の長女の頼子が刻む。左面は静子(平助の妻:深堀迄平の長女)、柳川清成(1916-1985.7.16:長男)が刻む。

*柳川平助と静子との間に3男5女を儲ける。長女の文子は柴弘人、二女の和子は陸軍大尉の武雄勝紀、三女の淑子は弓野勲に嫁いだ。四女は正子。それ以外は全員同墓所に眠る。

*長男の柳川清成は陸軍少佐(陸士49期)。「騎兵の歌」の作詞者でもある。清成の妻の寿は男爵の山本勝の長女。また二男の柳川清宇は陸軍大尉(陸士54期)、歩兵第百五十一聯隊第三大隊長としてビルマで戦死され、追悼本『人間柳川清宇』が刊行された。


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