鹿児島県出身。祖父は鹿児島藩士の山之内時習。父は鉄道官僚・政治家の山之内一次の次男として生まれる。兄は法学者の山之内一郎、弟は山之内三郎は子爵で千葉県知事を務めた加納久朗の長女の多恵子と結婚。
1911.5.27(M44)陸軍士官学校卒業(23期)。同期に小畑英良(のち大将)や伊佐一男(後に中将:4-1-23)、岡田資(後に中将)、落合忠吉(後に中将:16-1-7)、桜井省三(後に中将:4-1-35-7)、宝蔵寺久雄(後に中将:9-1-19-11)、飯野賢十(後に少将:21-1-20-8)、西原八三郎(後に少将:22-1-79)らがいる。同.12.26歩兵少尉に任官。'28.12.12(S3)陸軍大学校卒業(40期)。同期に市田一貫(後に少将:22-1-81)らがいる。中尉に昇進。さらに東京帝国大学法学部を卒業した。
'38 第1次近衛内閣によって第73帝国会議に提出された「国家総動員法」が制定された。これは日中戦争の長期化による総力戦の遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したものである。これに深く関わった山之内の口述『国家総動員法の本質とその運用』がそのまま著書として刊行された。
'39.1.16(S14)軍務局課員、同.8.1 朝鮮軍参謀を経て、'41.3.1 大佐に進み、同.10.15 第6師団参謀長に着任、同.12.8 太平洋戦争が勃発する。第6師団は当初、支那事変勃発以来、支那各地に転戦した在支兵団中最精鋭師団の一つで、当時は武漢地区に集結していた。しかし、ガダルカナル島の戦いで劣勢に立たされていた日本軍は、'42.11.16 第6師団を第8方面軍の戦闘序列に軍直部隊として編入し、ガダルカナル島攻撃再興に当たっての方面軍予備兵力となる。編入時の第6師団長は神田正種中将で、次ぐナンバー2の参謀長として着任している。
'43.6.11 東部軍附となり帰国。同.11.10 軍需省軍需官を任ぜられる。戦争末期、絶対国防圏の要石とされたサイパンを失い、レイテ戦に敗北、'45.1.20 大本営は本土の維持を作戦目的とした「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定、本土に於ける軍の編制を根本的に改めた。そこで、同.2.6 第15方面軍は主に近畿・中国・四国地方を作戦地域として編成され、当初は防衛総司令部の指揮下となる。同.3.1 少将に昇格し、新編成された第15方面軍参謀副長に補された。同.4.8 第15方面軍新設の第2総軍の指揮下に入り、連合国軍との本土決戦に備えた(結果交戦することはなかった)。同.5.5 軍需省軽金属局長に任ぜられ終戦を迎える。
'72 軍需省アルミ課長の経験を振り返り、『人生の燈火に再点火を尋ねて』を自費出版した。享年81歳。
*墓石は和型「山之内家墓」。裏面「昭和十八年十月 山之内二郎 建之」。左面が墓誌となっており、俗名、没年月日、行年が刻む。墓所内に「山之内靖 主要著作譜」の看板が立つ。
※墓石の刻みや様々な文献より、山之内二郎は最初に文子と結婚したが、'42(S17)34歳にて文子が早逝したため、下総小見川藩藩主の家系・子爵の内田正吉の二女の盛子と再婚。盛子も夫であった杉村弘道を亡くしていたので再婚同士であった。しかし、'48(S23)盛子も37歳の若さで亡くなる。そこで、政治家・子爵の井上匡四郎の長女、政治家の井上毅の孫にあたる匡子(きょうこ:1927-1971)を後妻として迎えたと思われる(墓石に匡子のみの刻みがない)。なお、文子との間に二男あり、長男の宏(1929-1950)は21歳で早逝。二男が山之内靖であると思われる。断定的な言い方ができない理由は、どの人名事典や文献においても、山之内二郎の息子のこと、山之内靖の父親のことが明記されているものに触れていないためである。誤りがあればご一報ください。