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おちあい ちゅうきち

落合忠吉

おちあい ちゅうきち

?〜 1965.6.19(昭和40)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 16区 1種 7側

 栃木県出身。1911.5.27(M44)陸軍士官学校卒業(23期)。 同期に、小畑英良(後に大将)、伊佐一男(後に中将:4-1-23)、岡田資(後に中将)、桜井省三(後に中将:4-1-35-7)、宝蔵寺久雄(後に中将:9-1-19-11)、飯野賢十(後に少将:21-1-20-8)、西原八三郎(のち少将:22-1-79)らがいる。同.12.26輜重兵少尉に任官。'22.11.29(T11)陸軍大学校卒業(34期)。同期に岡田資(後に中将)、中村明人(後に中将:14-1-18)、楠木延一(後に少将:20-1-21)らがいる。
 様々なの要職を経て、1935.12.2(S10)陸軍輜重兵大佐に進級し、輜重兵第七大隊長に着任。'36.6.1輜重兵第七聯隊長、同.8.1近衛師団兵器部長、'37.8.30北支那方面軍直轄兵站参謀長を歴任し、'38.7.15陸軍自動車学校幹事となる。陸軍自動車学校は'25に発足し機甲車輌の整備に関する教育をする場である。
 '39.3.9少将に昇格し、同.4.8北支那方面軍兵器部長に就任。'40.10.22第11代陸軍自動車学校長に補された。自動車技術協会会報に「戰地に於ける自動車使用状況に就て」を論じている。'41.8.1務めていた陸軍自動車学校が陸軍機甲本部の新設に伴い、教育総監から機甲本部長隷下に入り陸軍機甲整備学校と名称が改称されたため、初代校長となる。同.10.15中将に累進。この時に太平洋戦争が勃発。
 '42.4.1輜重兵監となり、'44.3.20留守第七師団長、同.4.6第七十七師団長に就任した。着任の二日後には本土決戦に備え南九州に転用された。'45.5.5教育総監部附となり、同.6.16輜重兵監に再任して終戦を迎える。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧など>


*墓石正面「落合家之墓」。戒名は永壽院法勲日忠居士。墓誌には行年78歳と刻む。


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