佐賀県出身。士官候補生を経て、1911(M44)陸軍士官学校卒業(23期)。同期に、小畑英良(のち大将)や岡田資(のち中将)らがいる。
陸軍少尉に任官。'21(T10)陸軍大学校卒業 (33期)。大陸戦線では北支から遠く蘭州、さらには満蒙国境の戦闘にまで参加して、空中戦史にその名を残す働きぶりであった。
'34(S9)陸軍大学校教官、翌年、大佐となり、浜松陸軍飛行学校教官となった。
'36.8.1飛行第10聯隊長、'37.11.1第2飛行集団参謀長を経て、'38.7.15少将、第7飛行団長となり、第2次ノモンハン事件で行われたタムスク爆撃で活躍した。
'39.7.1白城子陸軍飛行学校長に就任し、「陸の荒鷲」養成のために全力を捧げた。
翌年、公務のため満州より東京に飛来中(東條英機首相の呼び出しとされる)、京都府綴喜郡大住村字松井の田んぼに墜落(京都はこの時、雨であった)。
機体は110m離れた場所に散乱していたため空中分解による墜落と推察され、またパラシュートには手をつけた形跡がないため急な墜落であったとされる。
墜落原因は発動機の故障との見解とされた(カミナリ説ともいわれる)。これにより、宝蔵寺をはじめ搭乗者の岡田巳三夫陸軍少将、辻俊春陸軍航空兵中佐、根本功陸軍航空兵准尉、土井義夫陸軍航空兵准尉、黒沢功陸軍技手の6名が脳底骨折で即死した。
享年60歳。殉職死のため没後一階級特進し中将となった。功3級 勲2等 従4位。6名の遺体は松井公会堂から京都陸軍病院へと移された。
事故時は妻は満州に残っており、3男2女の子供たちは世田谷の実家にいた。家族は急ぎ入洛した。
長女は陸軍中佐の朝枝繁春に嫁す。朝枝繁春(1912-2000)は大本営作戦参謀として防疫給水部731部隊の証拠隠滅を命じたことや、第25軍(マレー・シンガポール作戦の部隊)の作戦参謀としても知られる。
父の事故時はすでに嫁いでいたが、夫が出征中であったため実家に身を寄せていた。長男の宝蔵寺忠(同墓)は、父の事故時は拓殖大専門部1年生の22歳であった。