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ほうぞうじ ひさお

宝蔵寺久雄

ほうぞうじ ひさお

1889.10.28(明治22)〜 1940.2.26(昭和15)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 9区 1種 19側 11番

 佐賀県出身。士官候補生を経て、1911(M44)陸軍士官学校卒業(23期)。同期に小畑英良(後に大将)や伊佐一男(後に中将:4-1-23)、岡田資(後に中将)、落合忠吉(後に中将:16-1-7)、桜井省三(後に中将:4-1-35-7)、飯野賢十(後に少将:21-1-20-8)、西原八三郎(のち少将:22-1-79)、山之内二郎(後に少将:12-1-2)らがいる。 陸軍少尉に任官。'21(T10)陸軍大学校卒業 (33期)。同期に寺本熊市(後に中将:13-2-54)、井上靖(後に少将:15-1-10)らがいた。大陸戦線では北支から遠く蘭州、さらには満蒙国境の戦闘にまで参加して、空中戦史にその名を残す働きぶりであった。
 '34(S9)陸軍大学校教官、翌年、大佐となり、浜松陸軍飛行学校教官となった。 '36.8.1飛行第10聯隊長、'37.11.1第2飛行集団参謀長を経て、'38.7.15少将、第7飛行団長となり、第2次ノモンハン事件で行われたタムスク爆撃で活躍した。
 '39.7.1白城子陸軍飛行学校長に就任し、「陸の荒鷲」養成のために全力を捧げた。翌年、公務のため満州より東京に飛来中(東條英機首相の呼び出しとされる)、京都府綴喜郡大住村字松井の田んぼに墜落(京都はこの時、雨であった)。 機体は110m離れた場所に散乱していたため空中分解による墜落と推察され、またパラシュートには手をつけた形跡がないため急な墜落であったとされる。 墜落原因は発動機の故障との見解とされた(カミナリ説ともいわれる)。これにより、宝蔵寺をはじめ搭乗者の岡田巳三夫陸軍少将、辻俊春陸軍航空兵中佐、根本功陸軍航空兵准尉、土井義夫陸軍航空兵准尉、黒沢功陸軍技手の6名が脳底骨折で即死した。 享年60歳。殉職死のため没後一階級特進し中将となった。功3級 勲2等 従4位。6名の遺体は松井公会堂から京都陸軍病院へと移された。 事故時は妻は満州に残っており、3男2女の子供たちは世田谷の実家にいた。家族は急ぎ入洛した。
 長女は陸軍中佐の朝枝繁春に嫁す。朝枝繁春(1912-2000)は大本営作戦参謀として防疫給水部731部隊の証拠隠滅を命じたことや、第25軍(マレー・シンガポール作戦の部隊)の作戦参謀としても知られる。 父の事故時はすでに嫁いでいたが、夫が出征中であったため実家に身を寄せていた。長男の宝蔵寺忠(同墓)は、父の事故時は拓殖大専門部1年生の22歳であった。

<帝国陸軍総督総覧>
<日本陸軍将官総覧など>


*和型の墓石には「陸軍中将 宝蔵寺久雄之墓」と刻む。右隣りの墓は岡本徳三陸軍少将である。


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