滋賀県出身。大阪陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1913(T7)陸軍士官学校卒業(25期)。
同期に、武藤章(のちに中将でA級戦犯で絞首刑)、富永恭次(のち中将でインパール作戦で敵前逃亡)、山崎保代(19-1-2 のち中将でアッツ島玉砕)、吉岡安直(3-1-14 のち中将で満州国の黒幕)らがいる。
'23陸軍大学卒業(35期)。'34(S9)関東軍司令部附(ハルピン碇泊場司令官)、'36陸軍運輸部部員、'37.8.2陸軍歩兵大佐となり、下関要塞参謀、'38.4.23歩兵第71聯隊長を歴任。
戦死した大内孜大佐の後任として、'39.7.6第23師団参謀長仰付として就任。
8月、ノモンハンの激戦の中、至近距離からの手榴弾によって右膝を爆砕された。
師団長の身近にいた師団軍医部長の村上徳治軍医大佐が、土砂の降りしきる壕内で、懐中電灯を頼りに岡本の右脚切断の大手術を行い一命はとりとめた。
ハイラル陸軍病院に送られ、のち東京牛込若松町の第一陸軍病院へ転送。9月には第23師団司令部附仰付とされる。
同病院にて加療中、'40.5.13精神錯乱で入院中の陸士同期生であった米岡米吉大佐により刺殺される。享年57歳。功三級。
没後一階級特進し少将となった。妻は陸軍中将の二子石官太郎(17-1-10)の娘。
<帝国陸軍将軍総覧> <日本陸軍将官総覧> <「考証 ノモンハン事件」楠裕次>
*左隣りの墓所は宝蔵寺久雄陸軍中将の墓、右隣りの墓所は山田雄二海軍少将の墓。
【ノモンハン事件】
1939.5満州国西部国境ハルハ河をめぐり、日満側とソ蒙側との間に国境紛争が起き、遂に武力衝突をひき起こした。
3ヵ月後の激戦の後、戦闘にあたった日本の第23師団はソ蒙の優秀な機械化部隊のために殆んど死傷し、事実上壊滅した。
関東軍は全満に応急派兵を命令して増援軍を送り、大作戦計画をたてたが、日華戦争遂行中の参謀本部と意見が対立し、遂に作戦中止の大命が出、ソ蒙側も第二次大戦勃発のため停戦を望み、9月16日停戦協定が成立した。以後、日本は軍の機械化に鋭意努力を傾けた。
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