メイン » » » 船引正之
ふなびき まさゆき

船引正之

ふなびき まさゆき

1891.8.2(明治24)〜 1963.5.9(昭和38)

大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 24区 1種 61側

 兵庫県出身。1913.5.26(T2)陸軍士官学校卒業(25期)。同期に小倉尚(後に中将:22-1-62)、須藤榮之助(後に中将:22-1-69)、村治敏男(後に中将:25-1-48)、山崎保代(後に中将:19-1-2)、吉岡安直(後に中将:3-1-14)、岡本徳三(後に少将:9-1-19)、杵村久蔵(後に少将:16-1-3)、山田三郎(後の少将:26-1-2)らがいる。同.12.25砲兵少尉に任官。'25.11.27陸軍大学校卒業(37期)。同期に清水盛明(後に中将:5-1-25)、吉岡安直、今田新太郎(後に少将:12-1-12-20)、小堀金城(後に少将:14-1-23)、二見秋三郎(後に少将:4-2-新26)らがいる。
 様々な要職を経て、'36.8.1(S11)独立混成第十一旅団参謀を務める。'37.8.2砲兵大佐になり、重砲兵学校研究主事に着任。'38.7.15野戦重砲兵第8聯隊長、'39.11.13関東軍兵器部長を歴任し、'40.3.9少将に昇進し、同.9.28第12砲兵団長に就いた。'41.10.15陸軍技術本部総務部長、'42.10.15陸軍兵器行政本部教育部長を務めた。
 '43.6.10中将に累進し、第64師団長を任ぜられた。'44.3太平洋戦争中は揚州、江北、鎮江、無錫方面の警備に当たっていたが、湖南省長沙に移動し第11軍に編入され長沙の警備に当たった。同.10第20軍に編入され大陸打通作戦の一環である第二次湘桂作戦に参加した。以後、華南で中国軍と交戦を続けたが、'45華中に後退し、湖南省長沙で防御準備を行っている中で終戦を迎えた。功4級。享年71歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>
<大日本帝国陸軍師団一覧>


墓所 碑

*墓石正面「船引家之墓」。裏面は「昭和二十八年秋・国分寺在住時 建之 / 平成十年十月改修 / 平成二十五年十二月改修」と刻む。墓所左側に墓誌が建つ。俗名と生没年月日が刻む。妻は鴻。息子の船引平八郎(1928.6.22-2017.12.13)は地質学者。墓誌の裏面右下に「1998・10建之」と刻む。

*墓所右側に船引正之の墓誌碑があり「故陸軍中将従四位勲二等功四級 船引正之」と題し、略歴が刻む。太平洋戦争時と以降はこのように刻む。「昭和十八年六月第六十四師団長に親補せられ中支に出征、終戦と共に戦犯に問わる。昭和二十七年八月帰宅。昭和三十八年五月九日癌の為死去。行年七十一歳。清虚で温情深い人柄は多くの人に慕われた。茲に其徳を子孫に伝える為此碑を建てる。昭和三十八年秋彼岸 妻 鴻」と刻む。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・は | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。