奈良県出身。祖父は郡山藩の武芸指南で黒川奉行を勤め、廃藩後は国樔郷の連合小学校長を務めた今田正儀(同墓)。父は漢学者の今田主税・母は町(共に同墓)の1男6女の長男。
1918.5.27(T7)陸軍士官学校卒業(30期)。同期に今井一二三(後に少将:18-1-10)、土岐鉾治(後に少将:13-1-27)、大迫尚道陸軍大将の長男である大迫勝(大佐:4-1-31-6)らがいた。同.12.25歩兵少尉に任官。
'25.11.27陸軍大学校卒業(37期)。同期に清水盛明(後に中将:5-1-25)、船引正之(後に中将:24-1-61)、吉岡安直(後に中将:3-1-14)、小堀金城(後に少将:14-1-23)、二見秋三郎(後に少将:4-2-新26)らがいる。
大尉に任官し、張学良軍事顧問・芝山兼四郎少佐の補佐官に就任。この時に、'31.9.18(S6)満州事変勃発の発端となる柳条湖事件が起こった。
中国奉天から北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上の爆発に対して、関東軍は張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中国東北地方の占領行動に移り満州事変へと発展していくことになる。
実は今田は、関東軍の板垣征四郎大佐と関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐の両参謀と気脈を通じて、関東軍蹶起の契機となる鉄道爆破の直接的策動者とされる。
これは戦後に、今田と爆破工作を指揮した奉天特務機関補佐官少佐であった花谷正の手記や、板垣征四郎、独立守備隊であった川島大尉らの証言で柳条湖事件は関東軍の自作自演であったと明るみになった。
なお、これら証言より柳条湖事件は、板垣・石原が爆破作戦を考え、今田と花谷が爆弾を調達して爆破工作を指揮し、河本末守中尉らが工作を実行したとされる。
これら謀略には、当時の関東軍司令官の本庄繁(13-1-4)中将、朝鮮軍司令官の林銑十郎(16-1-3-5)中将、参謀本部第1部長の建川美次(13-1-2)少将、参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎中佐らも賛同したという。
その後、一端内地に戻され、再び支那駐在・関東軍参謀となり、'37.3.1参謀第1部付、'38.12.1台湾混成旅団参謀、'39.4.20台湾混成旅団参謀長を経て、同.7.27第21軍参謀に就任し、同.8.1大佐に昇進。
'40.2.10南支方面軍高級参謀、同.3.9歩兵第73連隊長、'41.3.1第36師団参謀長となる。関東軍参謀として、満州国の発展に情熱を傾け、人材育成の柱となる「建国大学」の創設にも関与した。
しかし、石原莞爾に傾倒し、「東亜連盟」思想の信奉者であった今田の軍人としての晩年は不遇であり、'43.8.2少将に昇格するも、以後は激戦地に送られた。
'45.4.7第2軍参謀長を経て、同.5.24第36師団参謀長に就任。日本最強の雪兵団(装備・兵の士気ともに日本軍最強師団と言われた、青森・岩手・秋田・山県の東北健児で変成された陸軍36師団)の参謀長としてニューギニアのサルミで米軍との激戦中に終戦を迎えた。享年53歳。
<帝国陸軍将軍総覧> <日本陸軍将官総覧> <講談社日本人名大辞典など>
*墓石は和型「今田家之墓」。右側に碑が二基建つ。墓石の近くから、「今田正儀翁之墓表」(S6.9.3建之 西肥岡直養撰)、「買劍今田君碑」(S6.10.29建之 頭山満題額 西肥岡直養撰)。父の主税の碑文「買劍今田君碑」の中に、「一男の新太郎は陸軍大学現任大尉」と漢文で刻む。碑文の選出は西肥(さいひ)の岡直養(号は彪邨・虎文斎主人、字は子直、次郎と称す)は道学者である。墓所は渋谷寶泉寺から昭和5年5月25日改葬された。
*中江兆民一家とは家も近く、両家の父母との親交は厚く、今田新太郎と後に中国学者となる中江丑吉は幼馴染である。軍人と学者と立場を異にしながらも友情は強く、『中江丑吉書簡集』にそのことが触れられている。また、'37蘆溝橋事件を知った中江丑吉は、この事変を「世界戦争の序曲」と断定し、当時中佐で関東軍参謀であった今田新太郎に対中戦争の失敗すべきことを説き、拡大を防止するよう勧告したという。
第458回 柳条湖事件 南満州鉄道爆破事件 爆破工作を指揮した黒幕 満州事変 雪兵団 今田新太郎 お墓ツアー
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