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いまだ まさのり

今田正儀

いまだ まさのり

1828(文政11.1.10)〜 1902.5.3(明治35)

江戸後期・明治期の武芸指南役、奉行、教育者

埋葬場所: 12区 1種 12側 20番

 江戸出身。常陸牛久範士の藤井正直の第三子として生まれる。大和郡山範士の今田虎次郎の養嗣子となった。幼名は綱三郎、後に七郎。
 弓・槍・馬術など聰慧(そうけい=極めて賢い)であり、柔道にも長けていた。戸塚彦介(1813-1886)の楊心古流(ようしんこりゅう=柔術)の就学の門に入り、力をつけて四豪士號や四天王の一人となる。藩師範の門下士は三千人に至る。武芸指南役として楊心古流の復盛に尽力。
 越後黒川藩の支封(内分家)となり、黒川奉行を勤めた。百姓の乱が起きた際もそれを鎮め、藩の大参事や幼い君主の難局の時にも功績が有り、その名籍は明治中興まで語り継がれた。
 藩廃絶後は奈良県国樔郷の連合小学校長となった。また私塾を開き教育者として指導した。享年74歳。

<今田正儀翁之墓表より>


墓所

*墓石は和型「今田家之墓」。右側に碑が二基建つ。墓石の近くから、「今田正儀翁之墓表」(S6.9.3建之 西肥岡直養撰)、「買劍今田君碑」(S6.10.29建之 頭山満題額 西肥岡直養撰)。 碑文の選出は西肥(さいひ)の岡直養(号は彪邨・虎文斎主人、字は子直、次郎と称す)は道学者である。墓所は渋谷寶泉寺から昭和5年5月25日改葬された。

*今田正儀の後妻の崎枝は、旧姓は岩手。25歳の時に真田藩中老の奥女中をしていた際に、江戸城にてペリーの接待を行い、ペリーから第一等の女性と評され、評判になった逸話がある。 これは、安政元年正月に、前年の嘉永6年に続きペリーが浦賀に来て、3月の日米和睦条約調印が行われた。この時、幕府は各藩に中老以上の奥女中を割り当てて江戸城で接待させた。真田藩代表が岩手崎枝であった。

*嫡男の今田主税(同墓)は漢学者。孫の今田新太郎(同墓)は陸軍少将。


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