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ふたみ あきさぶろう

二見秋三郎

ふたみ あきさぶろう

1893(明治26)〜 1987.3.9(昭和62)

大正・昭和期の陸軍軍人(少将)

埋葬場所: 4区 2種 新26側

 神奈川出身。1916.5.26陸軍士官学校卒業(28期)。同期に當山弘道(後に中将:21-1-19)、池田顯亮(後に少将:13-1-26)、加島起巳(後に少将:23-1-26)、柏木東和(後に少将:19-1-13)、小柴俊男(後に大佐:2-1-13)、同.12.26歩兵少尉に任官。'25.11.27陸軍大学校卒業(37期)。同期に清水盛明(後に中将:5-1-25)、船引正之(後に中将:24-1-61)、吉岡安直(後に中将:3-1-14)、小堀金城(後に少将:14-1-23)、今田新太郎(後に少将:12-1-12-20)らがいる。航空兵に転科。
 '36.8.1(S11)参謀本部編制動員課動員班長を経て、'38.3.1大佐に昇進し、参謀本部附となる。同.7.15朝鮮軍高級参謀、'40.8.24第11軍作戦課長、'41.8.1第11軍参謀副長を歴任し、同.10.15少将に進級した。
 太平洋戦争が勃発し、'42.2.22東部軍司令部附、同.5.18第17軍参謀長に昇格。同.8.8-9 第一次ソロモン海戦は日本側の完勝であったが、本来の作戦目的である輸送船団撃滅を省略して敵機動部隊による攻撃を恐れ、戦場を離れて帰投する。 これを見たラバウル司令部の二見は「ミカンを取りに行って、皮だけ持って帰ったのか!」と日本の戦術的勝利だったが戦略的には完全な敗北だったと嘆いた有名な逸話がある。 また、ガダルカナルの戦いの際に、有力な砲兵を含む二個師団派遣を進言。兵力の動員に対して、具体的な数字を挙げて説明をしたが、これを上層部は消極的で批判的な報告と疎ましく思われ更迭され、同.10.1東部軍司令部附に戻された後、同.12.1予備役に入れられてしまい、羅津要塞司令官に左遷させられた。 二見の進言を聞いていれば、ガダルカナル島をめぐる攻防の戦いはあれほどの悲劇にならずに防げたかもしれないと後世伝えられている。加えて、米軍は戦後、報告書の中でガダルカナルの戦いの日本の戦略は愚行であったと酷評(場当たり的で後手の対策による失敗)していることからも、二見の進言の妥当性が裏付けされている。
 戦争末期、'45.4.30 独立混成第107旅団長に就任。同.7.16第154師団長心得で終戦を迎えた。154師団は本土決戦に備えるべく急造が決定した54個師団の一つであり、本土決戦第一次兵備としての16個の沿岸配備師団のひとつ。享年93歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧など>


*墓石は和型「二見家之墓」。左側に墓誌があり戒名は勲功院仁篤秋慧居士。「幸せな生涯を送った人、此処に眠る」と刻み、「正五位 勲二等 陸軍少将」と伴に名、没年月日、行年が刻む。妻は千代子。


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