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こしば としお

小柴俊男

こしば としお

1894.1.4(明治27)〜 1974.9.30(昭和49)

大正・昭和期の陸軍軍人(大佐)

埋葬場所: 2区 1種 13側

 千葉県館山市出身。1916.5.26(T5)陸軍士官学校卒業(28期)。同期に當山弘道(後に中将:21-1-19)、池田顯亮(後に少将:13-1-26)、加島起巳(後に少将:23-1-26)、柏木東和(後に少将:19-1-13)、二見秋三郎(後に少将:4-2-新26)、同.12.26少尉に任官。
 様々な軍歴を重ね、歩兵第236連隊に着任。'29(S14)この部隊は第40師団の編成に伴い、高知市朝倉の歩兵44連隊において編成された。そのため朝倉236連隊・鯨部隊とも称された。歩兵第236連隊長の小柴俊男を支隊長として任務にあたる。他の編成部隊は第236連隊第3大隊、戸田第234連隊の第3大隊、独立山砲第2連隊第2大隊、工兵第40連隊(第3中隊欠)を付けた。
 日中戦争から太平洋戦争終結までの6年半、常に師団の中核聯隊として武勲をたてる活躍をした。小柴が参加した「江南殲滅作戦」(1943)と「大陸打通作戦」(1944)では、二年連続で軍司令部より感状を受けるという栄誉に輝いている。
 戦後は捕虜となり、'48解放され帰国。享年80歳。


墓所 渡邉舒之墓 墓誌 渡邉幸三之墓

*墓所内には3基。入口右手正面に和型「渡邉舒之墓」、裏面「大正十四年五月廿五日歿」と刻む。その左側に回天特攻死した海軍大尉の「渡邉幸三之墓」、裏面「昭和十九年十一月二十日戦死 行年二十三才」と刻む。入口正面に洋型「鎮魂之碑 追憶」、裏面は「渡邉舒 長男 渡邉護 伯父 より 甥 小柴恵寿 祭祀を承継す。ここに墓誌に刻した人人を合祀し冥福と鎮魂を祈念す。平成六年三月 渡邉舒長女 小柴俊寿祖母 大日方なみ子 小柴恵寿」と刻む。その左側に墓誌が建つ。墓誌の裏面は「平成六年三月 小柴右武 献為 甥 俊寿 供養」と刻む。墓誌には右から、渡邉舒、渡邉幸三、小柴俊男、小柴せん、小柴俊寿、渡邉イルゼ(旧姓 ヴェツェル)、小柴恵壽、渡邉護が刻む。

*渡邉舒は耳鼻咽喉科学者で東京医科大學耳鼻咽喉科教室。舒の父は陸軍中将の渡邊祺十郎(2-1-6)で、兄は建築家の渡邊節(2-1-6)。

※渡邊祺十郎・節の「わたなべ」の漢字は「渡邊」と刻み、渡邉舒・護の「わたなべ」の漢字は「渡邉」と刻む。


【江南殲滅作戦(こうなんせんめつさくせん)】
 1943(S18)4月から6月の間に行われた日中戦争中に、湖北省西部での日本軍と中国軍の戦闘である。湖北作戦ともいう。中国側呼称は鄂西会戦。同時に行われた日本海軍側の作戦名はG作戦。日本の第11軍(司令官:横山勇中将)が、洞庭湖西方の長江南岸地域に侵攻し、所在の中国軍の撃滅を図った作戦である。
 この戦闘の中で、5月9日から11日までの3日間に支那の軍人と民間人3万人以上が虐殺されたといわれる「廠窖(しょうこう)虐殺事件」が発生した。小柴支隊は実行部隊として参加。
 独立混成第17旅団は5月7日に安郷を占領、小柴支隊は5月9日に南県を占領、戸田支隊は5月10日に三仙湖鎮北東で中国軍を包囲撃滅。これらの部隊は陸上からの包囲を担当。針谷支隊は洞庭湖上機動を担当。この際、武装汽船を使って洞庭湖上を逃れようとしていた国民党軍や避難民を攻撃するなど水上からの包囲を担当していた。小柴支隊は歩兵2個大隊と砲兵1個大隊でかなり火力の充実した部隊であった。なお同じく参戦した戸田義直大佐率いる戸田支隊は、歩兵1個大隊と工兵1個中隊の小規模な部隊。針谷逸郎大佐率いる針谷支隊は、工兵1個中隊をつけた歩兵2個大隊の部隊。敗戦後、小柴、戸田、針谷は捕虜となるが、廠窖虐殺事件で審判を受けなかったのは階級が低かったためともいわれている。
 江南殲滅作戦は日本軍がまとめた戦果の概要として、中国軍の遺棄死体30,766体、捕虜4,279人、要塞砲(野砲級)3門、山砲8門、速射砲9門、迫撃砲48門などの鹵獲、飛行機の撃墜鹵獲など13機であった。対して、日本側の損害は戦死者771人と戦傷者2,746人で、うち戦死者157人と戦傷者238人は空襲による損害であった。
 中国側は戦後、廠窖虐殺事件を非難し、5月9日から12日の4日間に湖南省南県廠窖鎮で、中国軍人および民間人合わせて3万人以上が殺害され、3千人以上が負傷、2千人以上が強姦されたという。中国側は南京虐殺に次ぐ日中戦争中で2番目の規模の虐殺事件であったと主張している。


【大陸打通作戦(たいりくだつうさくせん)】
 1944(S19)4月17日から12月10日にかけて、日本陸軍により中国大陸で行われた大規模な作戦。正式名称は一号作戦。中国側呼称は豫湘桂会戦。前半の京漢作戦(コ号作戦)と後半の湘桂作戦(ト号作戦)に大きく分けられる。
 この作戦の目的は、当時日本海軍の艦船や台湾を攻撃していた爆撃機を阻止するために、中国内陸部の連合国軍の航空基地を占領することと、日本の勢力下にあるフランス領インドシナへの陸路を開くことであった。日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦。
 結果、日本軍は勝利したものの大きな損害を受け、戦死戦病死者10万人(戦死が11,742人、それ以外は戦病死)と多くの戦病死者を出した。中国軍の損害は遺棄死体32,390体、捕虜7,800人に及んだ。中国西南地区に設置されたアメリカ陸軍航空軍基地群を占領し成功したが、連合国軍が航空基地をさらに内陸部に移動したことや、作戦中にアメリカ軍によりマリアナ諸島が陥落され本州がアメリカ軍の作戦範囲内になったことから、戦略目的としては十分達成した作戦ではなかった。なお、お笑い芸人 千鳥のノブの祖父は、小柴支隊の補充兵として加わり大陸打通作戦に参加したことが、NHK総合「ファミリーヒストリー」の番組内で紹介された(2019.4.22放送)。


【子はノーベル物理学賞の小柴昌俊(1926.9.19〜2020.11.12)】
 小柴昌俊は愛知県出身。父は陸軍大佐の小柴俊男。母は3歳で死別。小学生時代に父が満洲へ赴任し、その後、日中戦争の数々の戦闘に参加していたため、6年半帰国せず。そのため、神奈川県横須賀の叔父の家に預けられ、横須賀中学校に通う。幼いころは軍人か音楽家を目指していた(11歳上に親戚の音楽学者になる渡邉護がいた)。12歳の時に小児麻痺にかかり、軍人と音楽家への道を諦めた。入院中に担任から贈られたアインシュタインの「物理学はいかに創られたか」が物理学者を目指すきっかけとなった。
 職業軍人だった父が敗戦後は捕虜、釈放後も無職で、一家は生活の糧を失う。一高の学生だった小柴昌俊は家庭教師と肉体労働、姉は洋裁の仕立てとあらゆるバイトをして、両親と弟二人の生活費から学費まですべてを稼いだ。日銀総裁になる松下康雄(6-1-16)とは出版社のアルバイトで一緒だった。
 東大大学院在学中は栄光学園にて物理の臨時講師を担当。「この世に摩擦がなければどうなるのか記述せよ」との質問を期末試験の問題として出題。摩擦がないと鉛筆の先が滑って答案は書けない、それ故に正答は「白紙答案」。解答を記入すると不正解になる。これは生徒が自由に考え、アイデアをひねり出すきっかけになる。暗記や計算も大事だが、学ぶことの第一歩は「愉しい」と感じられることだという逸話がある。なお白紙解答の正解者は3名いたとのこと。
 一高卒業後、明治大学理工学部に入学するも退学し、東京大学教養学部から、'51東京大学理学部物理学科卒業。'55米国ロチェスター大学大学院修了。'58東京大学助教授となり原子核研究所に入る。
 シカゴ大学研究員の時、'59(S34)33歳で一時帰国して、開業医の慶子(きょうこ)とお見合い結婚。それまで30回以上お見合いをし失敗してのご縁であった。なお、慶子からの逆プロポーズでの結婚だったとのこと。1男1女を儲ける。長男は香川大学工学部教授で材料物理工学者の小柴俊。長女は藤井家に嫁ぐ。
 '70東京大学理学部教授。高エネルギー物理学実験施設長、素粒子物理国際協力施設長、素粒子物理国際研究センター長などを歴任。'87停年退官し東京大学名誉教授。以降、東海大学理学部教授。2002(H14)自らが設計を指導・監督したカミオカンデによって史上はじめて自然発生したニュートリノの観測に成功したことにより、ノーベル物理学賞を受賞。日本学士院会員。2005東京大学特別栄誉教授。勲1等旭日大綬章。
 超新星爆発で放出されたニュートリノの観測に世界で初めて成功し、長らく謎に包まれていた素粒子「ニュートリノ」を捉え、宇宙の成り立ちに迫る「ニュートリノ天文学」を開拓した。

<夫婦の情景(157)小柴昌俊・慶子夫妻--
ちょっと頑固なノーベル賞学者に連れ添った妻の寛容と忍耐>
<ノーベル物理学賞・小柴昌俊さん 94歳で逝去
「ありとあらゆる家庭教師をしてきたわたし」文春オンラインなど>


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