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わたなべ せつ

渡邊 節

わたなべ せつ

1884.11.3(明治17)〜 1967.1.21(昭和42)

大正・昭和期の建築家

埋葬場所: 2区 1種 6側

 東京麹町平河町出身。父は陸軍中将の渡邊祺十郎(同墓)の長男として生まれる。明治天皇の誕生日である天長節に生まれたことから「節」と名付けられた。幼少の頃は父の赴任先の関係で青森県弘前の小学校、中学校に通い、仙台の二高を経て、1908(M41)東京帝国大学建築学科卒業。
 卒業後、日韓併合間近な韓国政府度支部建築所技師となる。度支部は日本の大蔵省のようなところである。釜山・仁川などの税関庁舎を手掛けた。
 '12 鉄道員西部鉄道管理局に移る。梅小路機関車庫や旧京都駅舎の新築を手掛けた。京都駅舎の新築は明治天皇が崩御し大正天皇が京都で御大典を迎えるにあたり、駅舎の新築が急浮上したためである。当時、中央では東京駅舎を辰野金吾の設計で進められていた(T3.12完成)。'14.12(T3)貞と結婚。媒酌人は建築界の巨匠の妻木頼黄。
 '16(T5) 独立し、大阪に「渡邊建築事務所」を開設。'18 村野藤吾が入所、'29退所するまで大きな力となる。村野は後に建築家として文化勲章を受章する。'20 欧米建築事業を視察し、翌年帰国。'22 渡米し更に建築事情を視察した。外壁にテラコッタの使用、プラスターの輸入と国産化など外遊で得た知識を取り入れ、外観は欧米のオフィスビルの伝統様式を採用するなど、古典主義をベースとした様式建築を自在に設計した。主に近畿地域を中心に合理的なアメリカ流の商業ビルを設計。
 主な設計した建物は、'20神戸海洋気象台、登用リノリューム本館事務棟(兵庫伊丹)、'22大阪商船神戸支店(神戸市中央区)、'23日本興業銀行本店(東京千代田)、'25大阪ビルヂング(大阪北区)、'26松岡医院(長野松本)、'27大阪ビルヂング東京分館(東京千代田)、'28日本綿花横浜支店(横浜市中区)、'31綿業会館(大阪中央区:重要文化財)、'32岸和田市立自泉会館(大阪岸和田:有形文化財)、'33和泉銀行本店(大坂岸和田:有形文化財)、'34神戸証券取引所(神戸市中央区)、'34山陰合同銀行(兵庫豊岡):有形文化財)、'36乾邸宅(神戸市東灘区:指定文化財)、'37大阪商船株式会社台北出張所(台湾台北:市定古蹟)、'38丸物百貨店京都本店(京都下京)、'38第一勧業銀行松本支店(長野松本:有形文化財)などがある。
 '32(S7)『渡邊節作品集』発刊。戦時中は建築統制により設計の機会を失い、'43 福井県芦原町に疎開。戦後、'46 大阪にて事務所を開き復帰。翌年、渡辺道輝が入所して再出発。
 '52 大阪府建築士会会長、'54 日本建築設計監理協会関西支部幹事(〜'59)、'64 財団法人日本建築総合試験所理事、日本建築センター評議員を歴任し建築士会の発展に尽力した。戦後の設計として、鹿児島銀行大阪支店(大阪中央区:1952)、広野ゴルフ倶楽部(兵庫三木:1958)や城陽カントリー倶楽部(京都城陽:'59)のクラブハウスなどがある。
 晩年は住吉の自邸で秋になると菊花展を開き多くの知人を招待した。'66 大阪府建築士会会長を退任。『近畿建築士のひろば』を発刊。享年82歳。没後、従5位に列せられる。日本建築士会名誉会長。若手建築家のための「渡辺節賞」が設立された。

<王道を歩んだ様式主義建築家(続・生き続ける建築 渡邊節)坂本勝比古>
<「建築雑誌」など多数参考>


墓誌

*墓石正面「安らかに」。右側に墓誌がある。渡邊祺十郎には陸軍中将と刻む。祺十郎の妻は以知(1864-1944)、長男の渡邊節(1884-1967)には建築家と刻む。節の妻は貞(1893-1976)。他に悟(1900-1930)も眠る。祺十郎の子・節の弟の渡邉舒(2-1-13)は耳鼻咽喉科学者。祺十郎の孫・節の甥・渡邉舒の長男は音楽評論家の渡邉護(2-1-13)。渡邉舒や渡邉護が眠る同墓所は、ノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊(1926.9.19-2020-11.12)の父で陸軍大佐の小柴俊男(2-1-13)ら、小柴家の一族も眠る。

※渡邊祺十郎・節の「わたなべ」の漢字は「渡邊」と刻み、渡邉舒・護の「わたなべ」の漢字は「渡邉」と刻む。


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