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とうやま ひろみち

當山弘道

とうやま ひろみち

1895.3.18(明治28)〜 1969.2.16(昭和44)

大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 21区 1種 19側

 東京出身。苗字は「当山」とも書く。平安神宮宮司などを務めた神職の當山亮道(同墓)の長男。
 1916.5.26(T5)陸軍士官学校卒業(28期)。同期に池田顯亮(後に少将:13-1-26)、加島起巳(後に少将:23-1-26)、柏木東和(後に少将:19-1-13)、二見秋三郎(後に少将:4-2-新26)、小柴俊男(後に大佐:2-1-13)、同.12.26 歩兵少尉に任官。'28.12.12(S3)陸軍大学校卒業(40期)、同期に市田一貫(後に少将:11-1-81)、山之内二郎(後に少将:12-1-2)がいる。中尉に昇進。アメリカ駐在など要職を歴任。
 '36.12.1 陸軍戦車学校教官となる。'37.8.2 留守第1師団参謀長に着任し、'38.7.15 歩兵大佐に昇進。'39.3.9 第32師団参謀長、'40.12.2 公主嶺陸軍戦車学校教官を経て、'42.8.1 少将に進級し、戦車第1旅団長に補される。'43.6.10 通称名は戦車学校と呼ばれ、戦車をはじめとする車輛教育が行われた「千葉陸軍戦車学校」6代目 校長に就任。
 '44.7.8 戦車第4師団司令部附、同.11.22 教導戦車旅団長を経て、'45.4.16 独立戦車第8旅団長に着任した。この旅団は旧三ヶ日町(静岡県浜松市北区)に総員4050人からなり、アメリカ軍が遠州灘に上陸することを見越した本土決戦の布陣である。同.4.30 中将に昇格し、来るべき米軍との水際対戦に向けて準備をした。しかし、何事もなく、同.8.15 終戦を迎えた。勲2等。享年73歳。
 '99.1.3(H11)中日新聞東海版の朝刊の1面トップに「奥浜名湖に幻の戦車」というスクープ記事が掲載された。本土決戦に備え、日本で2両しか造られなかった「四式中戦車チト」という秘密戦車が配備されており、終戦を受け米軍に接収される前に、當山により浜松市の猪鼻湖(いのはなこ)の湖底に廃棄を命じられ、「自分が戦車を沈めた」と、當山の部下であった技術少尉の大平安夫が50年越しに証言し、湖底に沈んだ「幻の戦車」として注目された。その後「引き揚げる会」の発足されるも、湖底のヘドロの問題や資金難などが重なり現在も引き揚げは実現していない。

<帝国陸軍将軍総覧>
<幻の「四式中戦車チト」を求めて。人々はなぜ猪鼻湖の湖底を探すのか? 安藤健二>


*墓石前面「當山亮道家奥津城」、裏面「昭和十一年九月 當山弘道 建之」。左側に墓誌が建つ。父の當山亮道には「平安神宮々司 従四位」と刻む。母はヨシ(S22.3.17歿・享年73歳)。弘道には「陸軍中将 勲二等」と刻む。妻は冨貴(S19.1.23歿・享年47歳)。弟(三男)の當山有道(S61.11.13歿・享年75)には「芦森工業顧問」と刻む。弟(四男)の當山佐道(H5.4.6歿・享年78)には「神職」と刻む。なお同墓には眠っていない弟の當山俊道は宝生流シテ方の能楽師として活躍。


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