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かじま たつみ

加島起巳

かじま たつみ

1892(明治25)〜 1943.5.7(昭和18)

大正・昭和期の陸軍軍人(少将)

埋葬場所: 23区 1種 26側

 茨城県出身。加島義敬・てつの長男。1916.5.26(T5)陸軍士官学校卒業(28期)。同期に當山弘道(後に中将:21-1-19)、池田顯亮(後に少将:13-1-26)、柏木東和(後に少将:19-1-13)、二見秋三郎(後に少将:4-2-新26)、小柴俊男(後に大佐:2-1-13)、同.12.26騎兵少尉に任官。軍歴を重ね、1941.7.1(S16)騎兵第15連隊長、同.10.15大佐に昇進し、太平洋戦争が勃発。
 '42.6.26騎兵第13連隊長(第14連隊を改編・初代の機動歩兵第3連隊長)に就任。中国戦線に出征。人員約1900名、戦車22輛、自動車(トラック)280輛を率いた「マルあ」(丸の中に「あ」の字を書く)部隊と呼ばれる戦車第3師団を率いた。 '42.12にマルあ部隊は編成を開始し、'43秋に完結したが、この間、'43.5.7戦死。没後一階級特進し少将を任ぜられる。従4位追贈。功3級。享年51歳。
 後任の吉松喜三大佐は京漢作戦(コ号作戦)では「焼くな・殺すな・犯すな」の規律が徹底され、更には洛陽などの古跡や名刹の保全にも特別の配慮をした戦い方をし、作戦が終わると「弔日支両軍戦歿勇士之霊 興亜祈念樹」という慰霊標をたて、その周囲に樹を植えるなどし「緑の連隊長」と呼ばれた。


*墓石は和型「陸軍少将 加島起巳墓」。書は陸軍大将土肥原賢二。裏面「昭和十八年十月 加島敬一 建之」と刻む。右側に墓誌があり、父の加島義敬から刻む。起巳の戒名は大雄院殿誠光鐡心大居士。行年は51才と刻む。妻は眞佐子。

*父の加島義敬(T9.4.23没・行年56)は陸軍主計官吏であった。また長男の加島敬一(S51.9.26・行年51)は陸上自衛隊で自衛隊秋田地方協力本部長や陸上自衛隊少年工科学校教育部長などを務めた陸佐。


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