佐賀県出身。1913.5.26(T2)陸軍士官学校卒業(25期)。同期に小倉尚(後に中将:22-1-62)、船引正之(後に中将:24-1-61)、村治敏男(後に中将:25-1-48)、山崎保代(後に中将:19-1-2)、岡本徳三(後に少将:9-1-19)、杵村久蔵(後に少将:16-1-3)らがいる。
'25.11.27陸軍大学校卒業(37期)。同期に清水盛明(後に中将:5-1-25)、船引正之(後に中将:24-1-61)、今田新太郎(後に少将:12-1-12-20)、小堀金城(後に少将:14-1-23)、二見秋三郎(後に少将:4-2-新26)らがいる。
1937(S12)関東軍参謀(満州国皇帝付)。'39少将。'41関東軍参謀副長兼駐満武官。
同年、関東防衛軍参謀長。翌年、関東軍参謀兼満州国皇帝付、中将。
満州国は「共栄共存」「五族共栄」などアジアを中心とした国家建国の理想(大東亜共栄圏設立)のもと、日本が中国の一部に1933(S8)清朝最後の皇帝である溥儀を国家元首とし、国際連盟を無視し独立国家を建設した。
首都を新京(現在の長春)とし、元号も民国から大同に改めた。しかし、実情は日本が統括をしており、吉岡は溥儀の側近(実際は溥儀はただのシンボルとして扱われていた)として監視、指導をし、実質、溥儀は安岡の指示に従わねば何も出来ない存在にさせられていた。
関東軍中枢で溥儀を影で操っていたのが安岡である。
溥儀と吉岡が同じソファーに座り同じ目線で話す蝋人形が「緝熙楼」にて現在展示されていることからもわかる。
表向きには溥儀おつきの関東軍軍人であった吉岡は、溥傑と浩の政略結婚をお膳立てしたりと、なにかと溥儀にも日本人女性との結婚をせまるが、溥儀はこれをギリギリで回避していた。
しかしその代わりに溥儀が結婚した玉齢が死んだのは吉岡のせいだと思い込み、また、吉岡は浩にも偉そうな人物だと見られていたのか、溥儀と浩が後の書いた自伝では、吉岡に対する悪口が炸裂している。
吉岡は満洲国発展を願ってのことでもあったが、溥儀らにとっては逆効果であったようだ。
'45(S20)8月14日に日本がポツダム宣言を受け入れ終戦が近づくと関東軍は武装蜂起し、8月17日の国務院会議で満州国の解体を決議、ついで18日に溥儀自ら満州国の解体と皇帝退位を宣言し、13年以上にわたる歴史に幕を閉じた。戦後、東京軍事裁判において吉岡は溥儀に告発される。
その様子は、法廷で激しく証言台をたたき、「私の貴人(妻)は日本人によって毒殺されたのであります」と述べた。
「下手人は」と続け、関東軍参謀で溥儀の信頼を一身に受けた吉岡を名指しした。この貴人とは溥儀の第三夫人、譚玉齢のことである。吉岡はモスクワ市内の病院で死去。
その訃報はソ連極東部長から通告された。死亡日時は昭和22年11月30日の説もある。