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よしおか やすなお

吉岡安直

よしおか やすなお

1890.11.1(明治23)〜 1946.11.30(昭和22)

昭和期の陸軍軍人(中将)、
満州国溥儀の側近、溥儀を操った黒幕

埋葬場所: 3区 1種 14側

 大分県出身。川内清作の5男として生まれる。旧姓は川内。士官学校卒業した年(1913)に佐賀県の吉岡はつ(ハツ・初子:同墓)と結婚し婿養子となった。
 1913.5.26(T2)陸軍士官学校卒業(25期)。同期に小倉尚(後に中将:22-1-62)、須藤榮之助(後に中将:22-1-69)、船引正之(後に中将:24-1-61)、村治敏男(後に中将:25-1-48)、山崎保代(後に中将:19-1-2)、岡本徳三(後に少将:9-1-19)、杵村久蔵(後に少将:16-1-3)、山田三郎(後の少将:26-1-2)らがいる。'25.11.27陸軍大学校卒業(37期)。同期に清水盛明(後に中将:5-1-25)、船引正之(後に中将:24-1-61)、今田新太郎(後に少将:12-1-12-20)、小堀金城(後に少将:14-1-23)、二見秋三郎(後に少将:4-2-新26)らがいる。
 参謀本部付勤務や本部員、第8師団参謀などを歴任し、'32.12(S7)関東軍参謀となる。この年に満州国が建国されている。その後、'34から陸軍士官学校教官に異動したが、'35.3より関東軍参謀、満州国皇帝の愛新覚羅溥儀の御用掛となった。'39少将。'41関東軍参謀副長 兼 満州国駐在武官。同年、関東防衛軍参謀長。翌年、関東軍参謀 兼 満州国皇帝付、中将に昇進した。
 満州国は「共栄共存」「五族共栄」などアジアを中心とした国家建国の理想(大東亜共栄圏設立)のもと、日本が中国の一部に1933(S8)清朝最後の皇帝である溥儀を国家元首とし、国際連盟を無視し独立国家を建設した。首都を新京(現在の長春)とし、元号も民国から大同に改めた。しかし、実情は日本が統括をしており、吉岡は溥儀の側近(実際は溥儀はただのシンボルとして扱われていた)として監視、指導をし、実質、溥儀は安岡の指示に従わねば何も出来ない存在にさせられていた。関東軍中枢で溥儀を影で操っていたのが安岡である。
 溥儀の王宮「偽満州国皇宮(ぎまんしゅうこくこうきゅう)」の「緝熙楼(しょうきろう)」に現在、溥儀と吉岡が同じソファーに座り同じ目線で話す蝋人形が展示されている。このことからも、表向きには溥儀おつきの関東軍軍人であるが、実際は吉岡が溥儀を操った黒幕であるとわかる。
 吉岡は溥儀の弟の溥傑と日本の皇族の嵯峨 浩(さが ひろ)との政略結婚のお膳立てをしている。溥儀にも日本人女性との結婚をせまるが、溥儀はこれをギリギリで回避していた。
 '45.8.8(S20)ソ連軍がソ満国境を越えて満州国に侵攻した際に、溥儀ら満州国首脳とともに新京を放棄して朝鮮にほど近い通化省臨江の大栗子に避難していたが、8.14 日本がポツダム宣言を受け入れ、翌日玉音放送にて日本が連合国に降伏したことに伴い、8.17 国務院会議で満州国の解体を決議、ついで 8.18 溥儀が大栗子で満州帝国解体と満州帝国皇帝からの退位を宣言し、13年以上にわたる歴史に幕を閉じた。これにより、吉岡も全ての職位を失うこととなった。吉岡は溥儀らとともにソ連軍に捕まることを避けて日本へ逃亡する途中、奉天の飛行場でソ連軍に捕らえられた。その後ソ連領内に移送され、ソ連当局からスパイ行為などの容疑を掛けられて尋問を受けた。
 戦後、東京軍事裁判において吉岡は溥儀に告発される。その様子は、法廷で激しく証言台をたたき、「私の貴人(妻)は日本人によって毒殺されたのであります」と述べた。「下手人(げしゅにん)は」と続け、関東軍参謀で溥儀の信頼を一身に受けた吉岡を名指しした。この貴人とは溥儀の第三夫人の玉齢のことである。溥儀は側室の玉齢が死んだのは吉岡のせいだと思い込み、東京裁判でも訴え、また自伝『わが半生』においても、死因は腸チフスであったと書きつつも、治療を担当した吉岡の責任だとする内容を綴っている。
 吉岡はモスクワ市内の病院で逝去。その訃報はソ連極東部長から通告されたが、遺族に吉岡の死が知らされたのは15年後のことであった。墓はモスクワ市内のドンスコイ修道院内の日本人墓地にもある。
 なお、ソ連崩壊後 1994(H6)、ロシア連邦政府は、吉岡が当時ソ連に対するスパイ活動を行っていたという形跡は確認されず、拘留は不当なものであったと認めて名誉回復を行っている。加えて、2007 出版された溥儀の回顧録「わが半生」の完全版では、「極東国際軍事裁判で、吉岡安直に罪をなすりつけたと後に反省した」と述べている。溥儀の弟 溥傑の日本人妻の浩は自著『流転の王妃』で、軍と御用掛という身分を笠にきて皇帝をあやつる傲岸不遜(ごうがんふそん)な人物と書いている一方で、満州国崩壊後、一行を守るべく危険を顧みず行動したことを称賛もしている。1989 溥傑はインタビューで「吉岡さんのことは、私たちも少し言い過ぎました」とも述べている。

<日本陸軍将官総覧>
<帝国陸軍将軍総覧>
<図説 満州帝国など>


墓石裏面

*墓石は洋型「吉岡家」、右面「昭和四十四年十一月三十日 妻 吉岡はつ 建之」。裏面に戒名「義賢院殿釋靖安直道大居士」と俗名の後に以下の文章が刻む。「故 正三位勲一等陸軍中将 吉岡安直は昭和二十二年十一月三十日モスクワにて逝去す 行年五十八歳 此処に二十三回忌に当り墓碑を建立す」。その横に妻の戒名「徳壽院殿釋安室楽初大姉」、俗名は吉岡ハツと刻み、昭和五十九年十二月八日逝去 行年八十九歳と刻む。

*墓所左側に正面「慈」と刻み、右面「一九九二年九月吉日 加藤勇 建之」、裏面が墓誌となっている墓誌碑が建つ。裏面は「共に生き 共に眠る」と題され、加藤勇(2022.9.11逝・行年97才)、加藤悠紀子(1992.3.19逝・行年71才)、佐藤憲一郎(2009.7.30逝・行年48才)の三名が刻む(2023.5現在)。悠紀子は吉岡安直の娘(長女)である。

*妻の吉岡はつ との間に、悠紀子、和子の二女を儲けている。はつ は社交家であり、当時陸軍士官学校に留学していた溥傑は、よほど居心地が良かったのか、休日には教官である吉岡の家(東京都荻窪)を尋ねて、夫人や2人の子供たちとも親しく交流した。溥傑は吉岡のことを時にはオヤジと呼び、嵯峨浩との結婚話が持ちあがった時には相談するような間柄であった。また李香蘭(山口淑子)の人気が高まると満州ではファンクラブがつくられ、吉岡はメンバーのなかで最年長であったため会長に推された。その縁で山口淑子は時々吉岡の家へ行き、はつ の社交的な振る舞いに居心地よく、淑子は料理作りを手伝ったりするなど家族ぐるみの交際をした。『李香蘭 私の半生』 には、関東軍司令官邸で開かれたパーティーに吉岡夫人をはじめ、溥儀の妹たちも招かれて一緒に撮った写真が載っている。溥儀と吉岡の関係は決して険悪ではなく、吉岡は関東軍と溥儀の板ばさみに悩み、溥儀にはむしろ同情し、つくしていたと思われる。病院で亡くなる最後まで溥儀のことを気にかけていたようだ。

*1949.1.15(昭和24)に亡くなったという説もあるが、ここは墓石裏面に刻まれている1946年説とする。



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