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むらじ としお

村治敏男

むらじ としお

1891.11.6(明治24)〜 1969.10.23(昭和44)

大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 25区 1種 48側

 滋賀県出身。陸軍軍医の村治重厚、美代(共に同墓)の長男として生まれる。弟の昭(同墓)は日露戦争で戦死した陸軍歩兵少尉。1913.5.26(T2)陸軍士官学校卒業(25期)。同期に小倉尚(後に中将:22-1-62)、須藤榮之助(後に中将:22-1-69)、船引正之(後に中将:24-1-61)、山崎保代(後に中将:19-1-2)、吉岡安直(後に中将:3-1-14)、岡本徳三(後に少将:9-1-19)、杵村久蔵(後に少将:16-1-3)、山田三郎(後の少将:26-1-2)らがいる。同.12.25 陸軍少尉任官。
 '19.12.1 陸軍大学校に入校し、'22.11.29 陸軍大学校卒業(34期)。同期に岡田資(後に中将)、落合忠吉(後に中将:16-1-7)、中村明人(後に中将:14-1-18)、山本募(後に中将:12-1-25)、楠木延一(後に少将:20-1-21)らがいる。
 中佐の時、関東交通監督部に属し満州国交通の鉄道輸送指揮官と停車場司令官を務めた。'37.8.2(S12)歩兵大佐に昇進し、同.8.7 関東軍野戦鉄道参謀に就任した。'38.6.4 関東軍野戦鉄道参謀長に昇格し、同.7.15 歩兵第22聯隊長に抜擢された。
 '39.8.1 少将に進み、第1鉄道輸送司令官に着任。'40.6.26 参謀本部附、同.12.2 壱岐要塞司令官となる。壱岐要塞は対馬要塞と共に対馬海峡の防備のため設置された要塞であり日中戦争中重要な任務を任された。太平洋戦争中、'42.6.26 第2野戦鉄道司令官、'44.10.26 中将に累進し東部軍司令部附になった。'45.2.1 東部軍管区司令部附、同.2.20 大邱師管区司令官に補され、同.4.1 大邱師管区司令官(親補)、同.4.18 勲1等瑞宝章受章。そのまま終戦を迎えた。従4位 享年77歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>


*墓石正面「村治家之墓」。右側に墓誌がある。墓誌の冒頭には「昭和三十七年四月、村治美代(M26.4.21・37才)の墓を大津市膳所縁心寺よりこの地に移し、以後ながく村治家の墓所と定める。因に初代村治重厚及び二男の墓は大津市山上陸軍墓地にある(旧大津陸軍墓地に建つ村治重厚の墓碑の建之者は敏男)。昭和四十三年十月二十三日建之」と刻む。美代は重厚の前妻である。後妻は瀧江。墓誌には重厚と弟の昭の刻みもある。村治重厚(T5.12.21歿・73才)は初代とあり戒名は昇雲院諦學峩洋重厚居士、陸軍二等軍医正、正六位、勲四等と刻む。重厚二男とある村治昭(M37.8.31歿・22才)の、戒名は演光院赫然忠昭居士、陸軍歩兵少尉、正八位、勲六等、功五級と刻む。村治敏男は二代とあり戒名は高雲院和暢敏靖居士、陸軍中将、従四位、勲一等と刻む。敏男の妻は藤江(H8.8.9・93才)。三代目は村治敏明(S50.8.9歿・49才)。


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