鳥取県出身。父の乙松と母の志可との間に生まれる。1910(M43)陸軍士官学校1年生在学中に日蓮宗の法華経を信仰するようになる。
'11陸軍士官学校卒業(陸士23期)。同期に、小畑英良(後に大将)や伊佐一男(後に中将:4-1-23)、落合忠吉(後に中将:16-1-7)、桜井省三(後に中将:4-1-35-7)、宝蔵寺久雄(後に中将:9-1-19-11)、飯野賢十(後に少将:21-1-20-8)、西原八三郎(後に少将:22-1-79)、山之内二郎(後に少将:12-1-2)らがいる。
歩兵少尉となり歩兵第40連隊付となる。'14(T3)歩兵中尉。'15温子と結婚し、一男一女を儲ける。
'21歩兵大尉、翌年陸軍大学を卒業(陸大34期)。同期に落合忠吉(後に中将:16-1-7)、中村明人(後に中将:14-1-18)、村治敏男(後に中将:25-1-48)、山本募(後に中将:12-1-25)、楠木延一(後に少将:20-1-21)らがいる。
'23参本付勤務を経て部員となり、'25イギリス大使館付武官補佐官として、ロンドンに二年間半駐在。'27(S2)歩兵少佐。
翌年より陸大教官となる。'29第3師団司令部付を経て、'30(S5)参謀本部員となり、さらに秩父宮付侍従武官となる。翌年歩兵中佐。
'33教務課員兼陸大教官。'35歩兵大佐、歩兵第80連隊長。'37大阪の第4師団参謀長となる。
第4師団は当時関東軍隷下で三江省にあったため、参謀長兼治安維持会委員長として、共産匪の覆滅に励みながら、日本移民の世話もしていた。
'38少将となり歩兵第八旅団長として武漢三鎮攻略に参加。
東支、南満、京奉、津浦線を南下して進撃し、途中、敵の黄河決壊作戦にも遭ったが、それも乗り越え、東久邇宮殿下率いる第二軍の挺進隊として京漢線を乗り越え、漢口の北に殺到する偉功を建てた。
'39戦車学校長になり、戦車将校や少年戦車兵の育成に努め、'40相模造兵廠長として戦車製造にあたった。'41陸軍中将に昇進。
'42わが国初の戦車師団が編成されるや、戦車第2師団長に補され、再び満州に渡った。
装甲車輌500台、六輪自動車2000台から編成される戦車師団を以て、夜襲専門に近い訓練を徹底する必要があると考え、その決心を第一方面軍司令官であった山下奉文(16-1-8-6)に訴えると、山下はそれを快く聞き入れてくれた。
その後1年4ヶ月に渡りこの方針を徹底し、'43冬、一面氷となった佳木斯に師団の全将校を集めて、近代都市への装甲兵団による襲撃要領を研究中に、東海軍需監理部長へ転補させられ、航空機の増産に努力。
本土決戦を控え、'45.2.4第13方面軍司令官兼東海軍司令官の重責を担った。終戦後12月1日より予備役、同日より東海復員監(21日まで)。
'46.9.21国際法違反(捕虜虐待罪)に問われB級戦犯として巣鴨プリズン入所。'48.3.8横浜法廷で「東海軍事件・岡田ケース」開廷。
これは撃墜されたB29からパラシュート降下し捕虜となった米軍搭乗員27名を、東海軍が死刑と決定し、日本刀で斬首した件である。
本来は相応の裁判手続きが必要だったところを、空襲と本土決戦準備に追われていた同司令部は、略式手続きで処分の命令を下した。
これが残虐な行為であり戦争犯罪であるとされ、岡田以下関係者が戦犯として逮捕されたのである。岡田は訴追から逃れることは不可能と悟り、弁護団の編成を語学堪能な亀井貫一郎に依頼、「法戦」として戦った。
岡田は「1.無差別爆撃を行った搭乗員は捕虜ではなく重罪容疑者」「2.略式裁判でも軍律会議でも結果は死刑」「3.略式としたのは空襲が激化していたため」と公判で主張。
加えて、「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」と米軍による無差別爆撃を鋭く論難し続けた。
一方、検察側は処刑された9飛行士達の認識票たる金属の腕輪を法廷の机にズラリと並べ、合衆国空軍将士の勇敢にして公正妥当なる戦略爆撃を称えた。
これに対し、岡田の主任弁護士となったフェザーストン法学博士は、証言者に空襲によって腕を失った者、孤児院の園長、夫を失った婦人など、老若男女十数名の被災した日本人を招き、視覚効果も加味した弁護を行い、検察や米軍関係者による爆撃正当化を批判した。
岡田は自身も軍人として戦略爆撃を肯定する。もし自身が米国航空総司令官であったならば日本本土爆撃を決行するであろうと言っている。
ただし、米国のやり方が良くないと非難する。なぜ、鉄道や大工場を狙わず、片っ端から焼くのか。米軍ならば変電所やダムの位置がわからないはずがない。
人命を多く損せずして、目的を達する方法を考えることが、公法遵法の精神ではないかと、終始、米軍の無差別爆撃を非難し続けた。
結果、遂に岡田はアメリカ国務省よりこの法廷に宛て「無差別爆撃を認める」旨の声明電報獲得に成功した。しかし、5.19絞首刑の判決を受ける。「裁判に勝って判決に負けた」のだ。
岡田は捕虜処刑の罪について「私ひとりが一切の責任を負う」と岡田一人の死刑に食い止めた。刑の確定後、再審委員会に向け助命嘆願を行うように見せかけ、部下であった青年将校の受命行為を有罪とした不当をなじる書類ばかり提出し、唯一の異例たる執行停止処分に浴びさしめ、勇躍獄外の社会に赴かしめたのである。
死刑囚棟では仏道精進の一途に尽きた。許された訪問時間は、悉く他の死刑囚への仏教解説に充てられた。9.17午前零時半に刑死。
享年59歳。法務死とされる。功二級。岡田は公判や主尋問時に、『法戦の合間に』『毒箭』『公判直前ノ記録』などの手記を書きつづっている。
大岡昇平(7-2-13-22)『ながい旅』は岡田を扱った書である。また2008(H20)公開された映画『明日への遺言』で「法戦」を戦い抜いた男の生涯として脚光を浴びた。