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やまもと つのる

山本 募

やまもと つのる

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大正・昭和期の陸軍軍人(中将)、インパール作戦

埋葬場所: 12区 1種 25側

 福岡県出身。1914.5.28(T3)陸軍士官学校卒業(26期)。同期に硫黄島で戦死した栗林忠道大将や、井上靖(後の少将:15-1-10)、難波清作(後に少将:19-1-14)、簗瀬真琴(後に少将:21-1-17)、東八百蔵(後に大佐:15-1-7)らがいた。 同.12.25歩兵少尉に任官。'22.11.29(T11)陸軍大学校卒業(34期)。同期に岡田資(後に中将)、落合忠吉(後に中将:16-1-7)、中村明人(後の中将:14-1-18)、村治敏男(後に中将:25-1-48)、楠木延一(後に少将:20-1-21)らがいる。
 様々な要職を経て、'37.10.20(S12)台湾軍参謀、'38.7.15歩兵大佐に昇進。'39.4.4参謀本部付(汕頭駐在)、同.9.12支那派遣軍付を経て、'40.8.1支駐歩兵第3連隊長に着任した。
 '42.4.15第68師団参謀長に就任し、同.8.1少将に昇格し、'43.3.15第33歩兵団長となる。'44.3.8ビルマ・インパール作戦に参戦。牟田口廉也(26-1-46-19)軍司令官の傘下の師団幹部として山本支隊を率いる。山本支隊は祭兵団と弓兵団の間隔を埋める補助部隊であり、英印軍第20師団の攻防戦はテグノバールで火花を散らした。'44.11.22独立混成72旅団長を歴任して帰朝。
 '45.3.9歩兵校付、同.4.30中将に昇進し、本土決戦に備えるべくできた「本土防衛の決戦兵団」第214師団長に補せられた。結果、連合国軍の上陸はなく終戦を迎えた。

<帝国陸軍将軍総覧など>


*墓石は和型「山本家之墓」。裏面「昭和十九年七月 山本募 建之」と刻む。左面が墓誌となっている。戒名は覺王院釋徳募居士。行年72才と刻む。

*インパール作戦に関しては牟田口廉也に頁に詳しい。


【インパール作戦:山本支隊】
 山本支隊本部の一角に自分でテントを張り、山本支隊長の日常と指揮振りを観察し、のちにそれらをまとめ刊行した『インパール作戦従軍記』(丸山静雄)著書には、山本支隊長・山本募(当時は陸軍少将)の様子を下記のように記している。
 支隊長は山本を筆頭に、歩兵三個大隊(実兵は七個中隊)、戦車一個連隊(中、軽戦車三十余輌)、速射砲一個大隊(八門)、山砲(一個大隊十二門)、野戦重砲二個連隊(10センチ・カノン砲10門、15センチ榴弾砲8門)を擁した。歩兵部隊こそ少なかったが、全軍のうち戦車や重砲装備を持つ唯一の「火力突進隊」であった。
 山本は最も安全と思われる場所に横穴式の豪を掘り、周囲を幾重にも石で囲み、その前にテントを張って司令部としていた。砲撃を聞くと真っ先に壕に飛び込む。滅多に「司令部」以外に出ない。「司令部」から外に出ない理由は、「将軍は危険を冒してはならない」「将軍は血を目にすべきではない。それによって憐憫の情を起こし、指揮統率にためらいが出るようなことがあってはならない」からだとのこと。これらの様子から、前線には怖くて行けない、実戦経験のなさを白状しているに過ぎず、前線の実態を把握する意志もなく、また到底できるわけがなく、後方の偉いさん達ばかりを気にしている。と皮肉を込めて分析されている。その一方で、特権エリート意識だけは高く、毎日兵隊に谷から水汲みをさせて風呂に入り、食糧調達に高級副官の少佐があたり、コックが3人もいるという豪華さである。
 牟田口廉也軍司令官から「速やかにパレルに進出せよ」との督促電が来た。弓、祭、烈兵団とも作戦が停頓し、山本支隊正面が軍の主攻撃方面とされたが一向に攻撃がはかばかしく進まなかったからである。そこで山本は祭師団から配属替えになった吉岡大隊に側背からの攻撃を命じた。吉岡大隊はパレルの北東高地にたどり着き、これを占領したが、英印軍は猛然と砲火を集中し、その火力に吉岡大隊はひとたまりもなく潰走した。やむなく山本はテグノパール正面の攻撃に当たっている伊藤大隊長を支隊本部に呼びつけた。以降も同じことを繰り返すことになる。山本の命令は峻烈で、一度、攻撃を命ずると、目標陣地を奪取するまでは同じ部隊に突撃を命じた。攻撃に失敗すると、指揮官(伊藤少佐)は支隊本部に呼びつけられ「反省のテント」のなかで謹慎を命じられたのだ。
 最前線の大隊長の支隊長への前線の戦闘に対する進言は、至極当たり前のことである。それを兵隊の敢闘精神で勝つのだと、強調しても、圧倒的な敵火力の前には無力であり、日本軍の火力の貧弱さとその補給力の弱さを露呈している。戦う精神力も必要だが、火力・戦車を駆使して、「大和魂」という人力だけでの攻撃を命じる士官学校・陸軍大学卒のエリートの実態がこれでは戦闘・戦争にはならない。敗戦は当然の帰結である。
 厳しい前線での戦闘意欲だけは高いが、圧倒的に火力の劣る武器・弾薬、夜間ひそかに後方から届けられる握りめしで悪戦苦闘している大隊長以下の将官と兵隊達と支隊長の間の戦闘意識の違いと格差の大きさ、これでは戦に勝つことなど到底できるはずがない、それが「インパール作戦」前線の実態である。
 前線部隊が必死の戦闘で確保した場所も敵の圧倒的な火力・航空力に奪回されると、「反省テント」で謹慎を命じられ、「最後の突撃」を命ぜられる。一度占領した陣地を奪取されたのは「勝手に戦場を棄てた」ものだとして命令違反の罪に問われ、解任されて前線を離れた大隊長伊藤少佐の悲劇は、ほとんどの第一線の現場指揮官・兵隊達が「玉砕」の美名のもとに虚飾された。
 インパール作戦は失敗し、山本支隊は退却、日本に戻る。その後、中将に昇進して本土防衛の「決戦師団」第214師団長になる。まさに「一将功成りて万骨枯る」である。


 


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