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あずま やおぞう

東 八百蔵

あずま やおぞう

1890(明治23)〜 1939.5.29(昭和14)

大正・昭和期の陸軍軍人(騎兵大佐)、
第一次ノモンハン事件

埋葬場所: 15区 1種 7側

 1914.5.28(T3)陸軍士官学校卒業(26期)。同期に硫黄島で戦死した栗林忠道大将や、山本募(後の中将:12-1-25)、井上靖(後の少将:15-1-10)、難波清作(後に少将:19-1-14)、簗瀬真琴(後に少将:21-1-1)らがいた。 同.12.25歩兵少尉に任官。
 中佐の時に第23師団 捜索隊長の東支隊長に就任。1939(S14)5月11日から6月中旬に起こった日満軍(日本、満州)と外蒙古軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で衝突(第一次ノモンハン事件)した。この時期の日本軍は北進か南進かで揺れ動いていた。ノモンハンの地は満洲国とモンゴル人民共和国とが接する国境付近で、領土の帰属を巡ってぶつかっていた。満州軍は実質的には日本陸軍の関東軍であり、一方のモンゴル軍は実質ソ連軍であった。表向きには満州とモンゴルの対峙であったが実際は日本とソ連の領土問題である。
 5月14日、外蒙古軍による越境があり、満州国軍が撃退したが、翌日以降も外蒙古軍が越境攻撃してくるため、第23師団長の小松原道太郎中将は、外蒙古軍を叩くために東八百蔵中佐の師団捜索隊と2個歩兵中隊、満州国軍騎兵からなる部隊(東支隊:歩兵2個中隊)220名を出動させた。東が率いる捜索隊が現地に到着すると外蒙古軍は退却していたが、捜索隊が引き揚げると外蒙古軍は再び越境した。5月21日、歩兵第64連隊連隊長の山縣武光大佐に攻撃命令が下り、5月27日夜半より出撃。東率いる東捜索隊は敵陣後方へ回り込む作戦に出た。
 5月28日、山縣連隊は敵第一線陣地を奪い、ハルハ河の橋梁方面に進出しようとしたが、ハルハ河左岸からソ連軍が砲撃してきてため戦況が進まなくなり、敵陣深く侵入した東捜索隊と連絡がとれなくなった。関東軍参謀の辻政信参謀はノモンハンに到着すると東捜索隊危急を知り、5月30日、山縣隊の本部へ行く。しかし東捜索隊の消息がわからなかった。夜間になり山縣連隊が前進し、遂に東隊を見つけた。既に全滅。周りにはおびただしい敵戦車の轍痕(てっこん)があり、死体は半数以上は焼かれていた。火炎放射の戦車か死傷者にガソリンをかけて焼いたものである。山縣隊700名は三人で一人の屍 103名の遺体を収容した。
 生き残った池田軍医中尉の目撃談では下記のように語られている。東が率いる捜索隊は「九二式重装甲車」という小型戦車を有しており、山縣隊の中でも機動力が高く、この時も先陣を切って前線へと突き進んだ。だが前線に出すぎてしまい、ソ連軍の後方に出てしまったことを認識するも、味方と分断され、敵中で孤立してしまった。東捜索隊は徐々にソ連軍やモンゴル軍の激しい攻撃に晒されるようになり、戦車、装甲車、騎兵、狙撃兵と戦闘を繰り広げ、その度に損害を出しつつも頑強に抵抗し撃退していた。奮戦を続けるも、157名の兵員のうち、戦死者19名を含む91名の死傷者を出しており、部隊としては既に壊滅していた。東は「日本軍が初めてソ連軍と戦うのだから、ここで退却しては物笑いの種になる。最後の一兵まで、この地を死守してこの次は靖国神社で会おう」と訓示。
 5月29日、火炎放射器の攻撃によって東捜索隊の陣地は壊滅。夕刻、最後は19名ほどになり敵に包囲され突撃攻撃を試みた。部隊の飯島少尉は戦車に飛び乗り、乗員を刺殺、次の瞬間に胸に弾が貫通し、もはやこれまでと敵戦車上で割腹。東は日本刀を持って突撃し榴弾に倒れた。この東の突撃に怯んだソ連軍は200メートル退去したという。池田軍医は日没を待って負傷者に後退を命じて離脱したという。東は享年49歳。正5位 勲3等 功4級。
 東八百蔵は外蒙古軍(モンゴル軍)の間でも知られた存在であり「太陽の先生(ナラン・バクシ)」と敬い慕っていた。当時、モンゴルは日本のことをロシア語から借用したヤポンなどとは言わず、ナラン・オルシス(太陽の国)と呼んでいた。
 1990(H2)ノモンハンの戦場で慰霊が行われ、そのとき東の三女が出席。同行していた言語学者の田中克彦はモンゴル軍の国境哨所長に「あの人がアズマ中佐の娘さんです」と言ったところ、所長は東の娘を誘って馬に乗せ、草原を散歩した逸話がある。
 なお、関東軍は中央の指令を無視してモンゴル領内深くのソ軍航空基地に爆撃を加え、さらにハルハ河を超えて侵攻した結果、東捜索隊が全滅する犠牲を払った。関東軍は、ソ連軍に対する威力偵察程度として「事件」で済ますつもりであったが、ソ連側は日本軍の本格的侵攻作戦と捉えて、大量の新型戦車・航空機を投入し、両軍それぞれ2万人強の戦死傷者、行方不明者を出した軍事衝突と発展。実質、宣戦布告なしの「戦争」状態であった。しかし、同時期に、ナチス・ドイツがポーランド侵攻をしたことに慌てたソ連側が、ノモンハンでの衝突を一方的停戦協定で終結させることとなり、日本とソ連との国家間の戦争が避けられることになった。これらの一連の出来事を「ノモンハン事件」といわれる。

<『ノモンハン戦争〜モンゴルと満州国』田中 克彦著>
<「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元>


墓所

*墓石は前面「先祖代々之墓」。裏面「昭和五十九年六月 東篤夫 建之」。左側に墓誌があり、「陸軍騎兵大佐 正五位 勲三等 功四級 東八百蔵 命」とあり、「ノモンハン附近戦闘ニ於テ戦死」と刻む。


【ノモンハン事件】
 1911年に起きた辛亥革命によって、モンゴル北部(いわゆる外モンゴル)は清から独立したが、中華民国の影響下にあった。しかしロシア革命が起こると、ソ連軍の支援とコミンテルンの指導のもと、ソ連に続く世界で2番目の社会主義国家「モンゴル人民共和国」となる。中華民国の傀儡国家(かいらいこっか=あやつり人形)から、ソ連の傀儡国家へと移り変わった。
 1931年満州事変が起き日本が「満州国」をつくり誕生する。ソ連はこれを脅威に感じた。当時のソ連は、西側で力を伸ばしていたナチス・ドイツにも警戒せねばならない状況であったため、モンゴルを「東側の盾」にしようと考え、政治的介入を強めた。
 満州とソ連の国境では紛争が絶えず、住民の拉致や、偵察隊の侵入、領海侵犯などが起こっていた。1935年頃は1年間に176件もの国境紛争が起こっている。そこで、1936年ソ連とモンゴルは「相互援助議定書」に調印し、モンゴルにはソ連の軍隊「赤軍」が置かれることになる。
 1938.7.9日本が支那事変で中国側に意識が集中している時を見計らい、ソ連軍が「張鼓峰(ちょうこほう)」に陣地を構築し始めた。その地域は明らかな満州国領であり、日本軍が撤退を申し入れるも、ソ連軍は聞き入れず不法行為を推し進めた。それに対して、日本軍は実力行使で撃退することになる。しかし、同.8.1 ソ連軍は大量の飛行機と戦車を出動させ、執拗な爆撃や砲撃を行った。この攻撃により日本軍は戦死者500名を出し壊滅状態に陥るが、ソ連側も死傷者を792名出し、日本側はなんとか高地の頂上を死守したまま、同.8.11停戦協定が結ばれた。この「張鼓峰事件」は、日露戦争以降に経験した初めての欧米列強国との戦闘であり、日本は軍隊の機械化の遅れを痛感する結果となった。
 日本側は支那事変の最中であることから、満州での絶えない紛争に対して「不拡大方針」を取ることを決めた。この日本政府の方針はスパイ(ゾルゲと思われる)を通じてソ連に伝わり、スターリンは日本との全面戦争に拡大する可能性は低いと考え、兵力を極東へ投入するようになる。このソ連の動きに、満州の国防を担っていた関東軍はソ連の脅威を感じ「満ソ国境紛争処理要綱」を独自に策定。ソ連の不法行為に対しては軍事力を以って強硬に対応する事が示された。そして、1939.5.11「ノモンハン事件」が起こったのである。
 「ノモンハン事件」において、戦車の数の比率は日本とソ連では1:3、装甲車の数の比率は1:18と、ソ連が圧倒する戦力差での戦いであったが、日本軍は159名の戦死者を含む290名の死傷者を出した一方、ソ連軍は138名の戦死者を含む369名の死傷者を出し日本以上の損害となった。
 なお戦果をあげられなかったソ連の指揮官フェクレンコ軍団長は更迭。代わったゲオルギー・ジューコフが兵団長として着任。原因を分析し軍の規律を立て直した。ジューコフは後に元帥にまで昇進したロシア史上に名を遺した軍事の天才と称された人物である。スターリンがノモンハンの戦局を重視していたことが伺える人事配置だとうかがえる。ソ連とは異なり日本の関東軍は「東捜索隊の全滅」「敵兵力殲滅の失敗」などの責任を取る者が誰一人おらず、兵力の増強も行わなかった。日本国内も支那事変の長期化と、英米との関係悪化に緊張が向いており、ノモンハンに注目する者もいなかった。
 ノモンハン事件の実態は、モンゴルと満州という2つの傀儡国家の「領土紛争」という仮面をかぶった「ソ連の侵略戦争」である。ソ連に対して事変拡大の意志はないと対局を見誤る判断をした日本は、その後、再びソ連との壮絶な戦いに巻き込まれることになる。

<支那事変11 第一次ノモンハン事件 「太陽の先生」 >


【多磨霊園に眠るノモンハン事件関連者】
・ノモンハン戦の研究に欠かせない第一級の記録(戦後も回想している)とされている「備忘録」と題した日記に記していたのが、蘆川春雄(3-1-29の2)陸軍大佐、
・ノモンハンの激戦の中、至近距離からの手榴弾によって右膝を爆砕され、土砂の降りしきる壕内で、懐中電灯を頼りに行われた右脚切断の大手術で一命はとりとめた岡本徳三(9-1-19)陸軍少将。
・戦闘機隊長として参戦し負傷を負った横山八男(19-1-14)陸軍大佐。
・第8国境守備隊長としてノモンハン事件に参戦した阿部平輔(11-1-24)陸軍中将。
・第7飛行団長としてタムスク爆撃で活躍した宝蔵寺久雄(9-1-19-11)陸軍中将。
・実質的な参謀本部の統轄者としてノモンハン事件などの後始末と責任処置に尽力した澤田茂(4-1-26-2)陸軍中将。
・ノモンハン事件後の小松原道太郎中将の後任として、第23師団長に親補され師団の再建に尽力した井上政吉(20-1-18-12)陸軍中将。
・関東軍高級参謀(作戦課長)として、ノモンハン事件後の関東軍の建て直しに当たった有末次(22-1-22)陸軍中将。


 


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