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よこやま はちお

横山八男

よこやま はちお

1903(明治36)〜 1943.8.2(昭和18)

大正・昭和期の陸軍軍人(大佐)、戦闘機隊長

埋葬場所: 19区 1種 14側〔柳澤家〕

≪詳細な略歴をご存知の方はご教示ください≫


 1920年代空軍を保有する国は英国のみであり、30年代半ばまでにイタリア、ソビエト、フランス、ドイツが独立した空軍を持つに至る。 一方、日本は陸軍と海軍内に各々の航空隊を持つに留まっており、空軍独立が実現しない中、1936(S11)航空兵団が創設された。同年、横山は航空兵大尉となる。 この時期、横山は航空記事に「空軍が須らく独立するを要す」と投稿し、陸軍の独立空軍創設を望んでいたことが確認できる。
 '27チャールズ・リンドバークによって大西洋横断無着陸単独飛行が達成され、世界の航空界は、直線・周回での航続距離の世界記録樹立に躍起となり飛行が盛んに行われるようになった。 日本でも、'37亜欧連絡飛行最短時間記録樹立した塚越賢爾(21-2-34)や、'38東京帝国大学航空研究所の和田小六(18-1-1)所長のもとで航研機計画が実行され、3日間の無着陸周回航続距離世界記録と、10000kmコース平均速度国際記録の2つの記録を樹立している。
 同時期、'38.2.20から4日間、イタリア飛行協会主催の北アフリカ−イタリア領リビア周回三千五百キロ国際飛行競技大会に横山と加藤敏雄の二人が日本代表として初参加している。 日本人初の参加として列国人から多大な注目を惹いていたが、代表機「北阿」の輸送が間に合わず、ドイツ製飛行機のハインケル機にて出場。奮闘したが第三コースでプロペラに故障が生じ、惜しくもジアロ附近の砂漠に不時着棄権し結果を残せなかった。
 同.4.23〜4.29ドイツのベルリンから日本の東京まで二機雁行にて全航程15340kmを143時間43分で飛行した記録をつくった。 これは満州航空が先の国際飛行競技会で横山らが臨時で操縦したハインケル機が、長距離郵便機としてつくられたもので四発の低翼単葉、時速三〇〇キロ、航続力四五〇〇キロという優秀機であることに興味を持ち、ハインケルから□体類似のHe116輸送機を購入し、8名の搭乗員が技術取得と空輸のため飛行させたのが動機である。 なお、1機はJ-EAKF(関東庁逓信局登録)で東郷号と命名され、もう1機はJ-BAKD(日本航空局登録)で乃木号と命名された。J-EAKFの正操縦士が横山、副操縦士は松井勝吾、機関士は石川金吾、無線士は塩田陽三で実飛行時間56時間18分。 J-BAKDの正操縦士は国際飛行競技会で横山とタッグを組んだ加藤敏雄、副操縦士は中尾純利、機関士は岡本虎男、無線士は清都誠一で実飛行時間57時間18分。 ドイツのベルリンにあるテンペルホーフ飛行場を出発し、ロードス島、バスラージョドプール、カルカッタ、バンコク、台北、東京の南方コースをとって二機雁行して無事に東京入りした。
 横山は帰国後、少佐となり、翌'39.3.9飛行第64戦隊の2代目戦隊長に就任した。ちなみに、飛行第64戦隊は後に加藤建夫(20-1-12-19)率いる加藤隼戦闘隊として有名となるが、加藤は4代目の戦隊長であり、横山が戦隊長をしていた時は、加藤は第2中隊長であった。すなわち部下である。同年7月の第2次ノモンハン事件に参戦、部隊の戦死者を3名出し、横山本人も負傷。
 太平洋戦争勃発に際して、第9飛行団飛行第24戦隊の4代目戦隊長、配備機種は九七戦・一式戦。'42.7中佐として広東に進出、夏季航空作戦に参加。 '43.5東部ニューギニアに展開し、ウエクワ防空参戦、同8.2ニューギニア・フィンシュハーフェン上空で米戦闘機群と空戦、戦死。享年40歳。勲3等 功3級。没後、1階級特進し大佐となった。


墓所 碑

*墓石は洋型「柳澤家」。右側に「故 陸軍大佐 横山八男 碑」が建つ。碑の裏には「シヅ建之 弘子書」と刻む。墓石裏面が墓誌となっており、戒名は護國院儘忠良男居士。 「勲三等 功三級 陸軍航空兵大佐 横山八男 義父 昭和十八年八月二日 ニューギニアにて戦死 行年四十才」と刻む。妻はシヅ。娘の弘子が柳澤家に嫁ぎ、墓所を継承している。

*隣りの墓所は同時期の第19飛行団長として戦死した難波清作陸軍少将の墓所である。


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